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Movie Magic

映画の魅力とは何なのか。見解を交え、熱く語っているブログです。映画をもっと知ってほしい、もっと好きになってほしい。それだけを願うブログであるのです。他にも様々な分野にも綴っております。ぜひご覧ください

カンヌ映画祭の仕組みって!?:各映画祭の違いとは?[解説]

こんちくわ!Shygonです。

 

今回は映画ではなく、ドラマでもなく、、、

映画祭について特集します

僕自身映画祭は映画を語る上でとても重要な事であると思います。

なぜなら、これから公開されるであろう映画を選定する一種の指標にあり、この結果により映画の興行収入が変わってくるからです。

 

さらにその時代の旬な映画の特徴や背景をそのまま映し出しているのです。

今回はその中でも世界三大映画祭に数えられ、世界で最も盛大に行われる

カンヌ映画祭に焦点を当て、熱く語って言いたいと思います。

最後に毎年5月の半ばに行われることもあり、予備知識として楽しんでいただければ幸いです。

 

毎回同様、いくつかのカテゴリーに分け、語りつくしますよ

 

 

1分でわかるカンヌの全容!?

カンヌはフランスの南地方に位置する小さな観光地、コートダジュールで行われている。(日本のカラオケチェーン、コートダジュールでピンときた方多いでしょうか)

 

毎年5月半ばになると世界中から映画関係者が挙って集まり、映画の売買が行われている。その年の一番早い大きな映画祭であるためそこからその年の目玉映画が出品されることが少なくない。

若手映画製作者にとっては自分らの作品を世界にお披露目できる場所として、若者の登竜門として知られている。

最近ではカナダ出身の新税グザヴィエドラン監督兼俳優が世界的に知られるきっかけとなった映画祭だ。

さらに映画祭としては世界最高峰の歴史を持ち、戦後直後から始まった長い歴史を持つ映画祭としても有名。

同時に時代の流れとともに様々な事件に翻弄され、映画を語る上で無視することのできない催し物である。

日本では有名なアカデミー賞とは大きく違い、世界中から作品が同じ土俵から評価され、カンヌの結果が今の時代を先行するくらい、常に時代の先端に位置付けられえている。

次の章で詳しく解説しよう。

 

カンヌの細かい仕組みとは!?

まず、選別の仕組みである。ここがほかの映画祭とは違うのだ。毎年審査員というものが変わるのである。

それはカンヌ映画祭の事務員が選定し、だいたい前の年に脚光を浴びた監督が多いというのが一つの特徴である。映画という業界ということもあり、若い人はなりにくく、すでに世界的に知名度が高いクリエーターが審査員長を務める傾向にある。

世界中から応募を受け、それを審査員長はじめその年の審査員たちがみんなで話あい、決めるのだ。なので、その年の審査員長がどんなタイプの映画が好きなのかで受賞してくる映画の傾向も違ってくるのである。

さらにここも他とは一味違い、投票する際に無名投票ではないということだ。例えば、アカデミー賞の際は無名投票で、毎年投票者が変わることはない。一回アカデミー賞の会員になればずっと毎年投票できるのである。

 

賞のカテゴリーは以下のようになっている。

パルムドール:映画祭において最高賞である。毎年、その結果によって大議論が巻き起こることが多々ある。だが、この賞を受賞した映画は他部門を受賞できないというルールが存在する。

審査員賞特別グランプリ:その名の通りである。この賞はわりと審査員長の意向が通ることが多いとされている。

後は通常通り各分野の賞が設けられている。

監督賞、女優賞、男優賞そして脚本賞である。

 

さらにここがもうひとつの面白い特徴だ。

 

ある視点部門である。

この部門は簡単に言うと野球でいう新人王にあたるものである。

映画祭では若者に特化した、次世代の映画製作者に的を絞って評価するのはとても珍しいことである。

さらにこの選定あまり映画製作の盛んではない国出身の監督も多く受賞しているということからかなり公平かつ、本来の映画祭の意味をしっかり理解した選定になっていると僕は思い、毎年結果が楽しみなのである。

実際日本から様々な映画が出品されているが、いまだに受賞はない。

 

カンヌの傾向を徹底追及!

上記に示したように、様々な有名監督の登竜門であったことが世界的に知られているカンヌ映画祭。例を挙げるときりがないレベルである。

  1. 黒澤明:言わずとしれた世界のクロサワ。実は彼も羅生門という映画で初めて国際的に名前が知られ、世界のクロサワとまでいわれるようになったのであった。
  2. フランシスフォードコッポラ:名作ゴットファーザーを世に送り出した彼もカンヌで評価された監督の一人である。カンヌ自体が彼の登竜門ではないが、彼とカンヌは今でも密接な関係を保っている。
  3. マーティンスコセッシ:彼もまた一人。名作の域を超えたタクシードライバーをはじめて世に送り出した場所はココ、カンヌであり、彼のキャリアの原点でもあった。

このような有名監督や、特にイタリア出身の監督の受賞はカンヌでは常連である。

例えば、ヴィムベンダース、フランソワトリュフォーなども含まれる。

最後にこの話を紹介したいと思う。

世界的に有名な監督クエンティンタランティーノは2003年、カンヌ映画祭の審査員長を務めた。その祭、彼ただ一人だけ絶賛の喝采を送った映画オールドボーイ(韓国)の監督ポンジュノは彼のサポートもあり、今ではハリウッドでも撮るようになるまでの方にあったのである。

確かに映画オールドボーイは僕の本当にお気に入りの映画の中の一つである。そのような国、作風にとらわれず、評価するカンヌ映画祭はやはり時代の先を常に言っていると確信している。

今年もその時期に差し掛かりました。なので、ぜひチェックをお願いします。

そして映画の繁栄を願うばかりです。

 

びぇ!

 

 

 

これは面白い!!今後の展開が気になるドラマ、ストレンジャーシングスを語る![解説と考察]

こんちくわ!Shygonです。

 

今回はnetflix製作のSFアドベンチャー、ストレンジャーシングスについて熱く語ります!
このドラマ、見た方はとても違和感を感じたことと思います。

それはなにか、なぜか違うからです!

その正体とはなんなのか、主人公たちがデモゴルゴンを探す旅のような感覚で真相を解明していきたいと思います。

今回も各カテゴリーに分け、様々な視点から語っていきますよ!?

なおあらすじについては省略させていただきます。

 

 

70、80年代を彷彿させる作風!?
僕はこのドラマ本当に好きである。

なぜなら映画ではないからだ。
見る前から一種のドラマとわかって見始めたのだが、とても様々な映画のオマージュのような雰囲気を漂わせているという点が気になったのだ。例を用いて説明しよう。
まずははじめの冒頭、タイトルロールである。これをはじめて見たとき興奮を抑えられなかった。

そうあの名作スターウォーズの面影を感じるのであった。

あの文字の並び方、タイトルロールの出し方そっくりとまではいかないがとても近い気がするのである。
そしてあの劇的な登場とともに鳴り響いてくる振動のようなドラム音、なにかを予知させる音楽が視聴者の興味を引くのである。これもベクトルこそ違うもののいくつかの類似点が見受けられるのである。

次に、このドラマの内容である。

成長境いの少年たちのアドベンチャーといったら名作グーニーズである。まだなにもかも信じきっていたあの時代を切り取り、彼らの視点から映画を描くグーニーズとこのドラマには様々な共通点があると考えている。信憑性の低い逸話を信じ、自分たちなりに考えた理論や目標を達成して行こうとするあの遊び心を、このドラマからも感じるのである。

そう考えているとスタンドバイミーの記憶も呼び起こされるのである。噂だけを頼りに4人の男の子たちがひたすら線路を旅しに行くという物語であったが、このように少年たちの外の世界への興味からなるプチ旅行の走り映画へのオマージュも忘れていないという観点から、このストレンジャーシングスは70、80年代の映画へのリスペクトを感じる。
しかし、僕ははじめはそんなことを考えず、ただ見ていたのだ。だが、あるシーンが頻繁に出てくるのを境に違う見方をするようになった。

 

それはタバコである。

 

このドラマ僕は前半戦の時点で違和感を感じていた。なぜなら、やたらと喫煙者が多いのである。

よく喫煙のシーンが描き出されるのである。それは子供を前にしていても限らずである。

最近はタバコに対する規制が世界的に広がり、子供達への悪影響を懸念し、映画やドラマにはほとんど登場しなくなってしまったのだ。

この話はとても有名であるが、例えば、大人気アニメのワンピース。この話の中でサンジはよくタバコを吸っている。しかし、アメリカのアニメではアメを舐めていることになっている。

1990年代初頭から徐々にそのような活動が米国国内で盛んになり、タバコのを吸っている登場人物が姿を消したのである。しかし、今回のこのドラマはnetflix製作ということもあり、テレビや映画館での鑑賞ではないためこのような規制なく好きなように製作できるのである。
さらに、上記で触れたオマージュを受ける作品は全て規制前時代の映画のである。

なのでその当時はこのドラマのようにタバコを蒸すシーンが度々描かれているのだ。

例えば、スタンドバイミーにおいては冒頭シーンの隠れ家ではひとりのヤンチャ坊主は子供にも関わらず、タバコをふかしていた。これは今では絶対見ることのできないシーンの1つである。もしかすると監督はこのようなある意味無邪気な描写に憧れており、自分たちのガキの頃を思い出し、この作品作りに没頭していたのかもしれない。
僕は本当にこのようなところに映画やドラマの魅力が隠れていると思っている。このドラマは若い人にとってはただ面白いものにしかならないが、70、80年代に子供だった、今立派な社会人にとってはあの無邪気な頃を思い出し、深い思入れをしているのかもしれない。

そしてグーニーズの頃に立派な大人出会った人はグーニーズを見たときに久しぶりに昔を懐かしみ、このストレンジャーシングスでは遥か遠い昔のような感覚で楽しむことができるということである。

 

ただ、この作品、単に活発な子供達に焦点を当てているのではないという点がまた興味深いである。子供を探す、見守る親世代、もちろん無邪気な子供の両方が主人公して切り取られている。上記に示した観点から、このドラマはある限定された世代のために作っているのではなく世代によって楽しみ方が違うという点が本当によくできていると思う。


SF作品の新しい一歩!?
このドラマ紛れもなくSFである。パラレルワールドは理論として一般的な世間に幅広く広がっているが、実際はとても複雑である。それをロードオブザリングの話になぞり、子供達が真相解明している。その様子はまるでスピルバーグ監督の未知との遭遇やETを思い出す。
しかし、宇宙人が登場するようなSFの大定番ではなく(イレブン(登場人物の1人で、超能力を使える)は宇宙人なのか!?)、新しい切り口の理論パラレルワールドについて取り扱っているということである。とても難しい理論を映画マネーショートでしたような簡略的に説明している点や、それを子供達の視点から描いているなど遊び心を感じるのである。
最後に主要な登場人物イレブンについて触れていきたい。彼女は政府に人体実験をされており、超能力の持ち主である。それとパラレルワールドの関係性がシーズン1では語られることがなかったが、そのように様々な疑問を残していずれくるであろうシーズン2に持ち越ししたことが僕にとってはムカつく!!!
単に早く知りたいということである。

今後の展開が楽しみである。

 

びぇ!

唐突に ’弱虫ペダル’ ヤバない??読まない人は損なのか!?[解説と考察]

今回このブログ初、漫画に手を出しました!

なぜかそんなの単純な問題です。

この漫画面白すぎる!

はじめてみたときなんか自転車か、あれスポーツなんかと軽い気持ちで見ていましたのさ、そんな気持ち今になって後悔ですよ!

なんでもっと早く出会わなかったのかよって!

ということで今回今大人気!?漫画弱虫ペダルを熱く語りたいと思います!

まだご覧になってない方はぜひ漫画を買って読んでみてください!

 

毎回同様、様々なカテゴリーに分け、燃焼目指しますよ!!!

 

 

筆者の自転車愛!!!

この漫画とにかく自転車への愛情が紙を超えて伝わってくるのである。スポーツ漫画はわりとそのスポーツの魅力が熱く語られている場合が多い。僕でいうと映画である。

しかし、この筆者の自転車愛ほど凄まじく熱いものは他にないのではと考え込んでしまうほど僕ら読者を虜にしていしまうのだ。

僕は自転車は単なる移動手段にしか過ぎず、自転車というものにあまり深入りがないのだ。しかし、この漫画は自転車という競技の存在意義、そこにハマっていく人たちの気持ちを主観的に描き出し、それを僕ら素人も漫画を通じて体感できるという点が魅力的であると思う。例に例えると体感型のゲームである、VRの世界でないのにこの漫画はそんな体験をしていると気づかないうちに思わせるのである。

漫画の描き方がどっちかというとオーバー過ぎるが、それがかえって自転車という競技の真意なのかもしれない。

キャラたちが自転車を漕ぐシーンも細かくそのシーン毎に場面展開されており、本当にワクワクしてくるのである。

どれだけ筆者が自転車という競技を愛し、理解しているかということである。僕は様々なスポーツ漫画をこれまで読んてきたが、これほどまでに熱意を感じる漫画はなかったと断言できるのである!

 

 

 

主人公が全然ヘッポコである!?

よくスポーツ漫画にあるある、主人公が強すぎるという点。試合を重ねるごとに強くなり、おまえはサイヤ人かとツッコミたくなるような話が多いのである。

例えば、メジャーである。僕のお気に入りの漫画の一つではあるが、茂野五郎の無敵さといったらねとなってしまう。しかし、この主人公小野田坂道(名前から、どんだけ自転車愛してるの?藤川球児かよ!ってなる)は決して体格に恵まれた方ではなく、背は小さく筋肉のないオタクなのである。しかし、彼の意外性が彼の高校を動かしていくのを目の当たりにするのが一つの楽しみである。

例えば、野球漫画ダイヤのエースがこの漫画に近いであろう。メジャーや巨人の星のように主人公が神ってないという点からである。ただ、彼らの奇跡を引き起こすことが試合の展開の風向きを変え、自チームを勝利に向かわせる。僕は実際に自転車のロードレースにでたことがないので、本当の意味での自転車の魅力はわからないがもしかするとこの意外性こそが最も重要なことであり、自転車の最大の魅力であると筆者は僕らに語り掛けているのかもしれない。

 

 

あだ名カッコよくないですか!?

この種の漫画は僕にとっては新しいと思う。登場人物それぞれにあだ名があり、それがかれらのココという勝負シーンで紹介されるのである。この紹介の仕方や名前がロマンがあり、惚れてしまうのである。

例えば、主将の金城のあだ名である。彼は石道の蛇と呼ばれる。

こんなイケメンなセンスのいい名前があるのかと仰天するばかりである。

男には理解してもらえると思うが、スポーツ漫画にこのような一種の邪道がこんなにも光って見えるのは僕だけであろうか。そしてそのあだ名の横にはシャレた説明がつくのである。石道の蛇の場合はどこまでも食らいつく、諦めないという意味で、となっていた。そしてこれは人によってだが必殺技まであるというのだ。田所という巨体の選手の場合だと必殺技、酸素音速肉弾頭といって、ものすごいスピードをだしてコース内を駆け回るのである。

これをみると僕が子供時代によく見ていたイナズマイレブンというサッカーアニメを思い出すのである。いつになっても男性にはこの興奮は付き物であるのかと思ってしまう。

 

このようにこの漫画弱虫ペダルは懐かしい子供時代を思い出すと共に自転車という一種のスポーツの魅力に取りつかれてしまう危ない、中毒性のあるドラッグなのである。

 

びぇ!

 

 

 

 

ララランド:実は奥が深すぎる難解映画!?[解説と考察] part 2

今回ララランド特集第二回ということでさらにヒートアップして語ろうと思います!

まだご覧になってない方はぜひお読みください!

 

shygon.hatenablog.com

 前回は撮影など映画の技術的な部分に焦点を当ててきましたが、今回はね!

さぁー!!今回はミュージカルとこの映画の僕らへのメッセージについて燃焼しますよ!

 

なぜミュージカルでなくてはならなかったのか!?

なぜこのララランドはミュージカルでなければいけなかったのか。

監督の趣味、志向と言われればそれまでであるが(確かにそれもある笑)、これはミュージカルという分野の成り立ちやそれの根本的な、本質的な部分を知らない以外解決策はないと思っている。

では本来ミュージカル映画とは何であったのか。

それは新しい時代を先行する象徴的な分野であった。

モノクロ映画からカラー映画の変換期に映画としての差別化を図るためにカラフルな色使い、迫力のあるセットで人々を魅了して生きたのだ。

そのようなインパクトや第一印象として人々の生活に浸透していったのであった。映画的な作法の方向で考えるとミュージカル映画現実と理想を描くときに効果的なのであると思う。ふつうは回想シーンの導入部分は詳細に描く場合が多いのである。

しかし、それは現在進行中のシーンをブッタきることが必要になってくるのである。

ララランドの場合では最後のシーンが一番わかりやすいが、ピアノの演奏中二人は別のあったかもしれない未来を回想として頭の中で描いていた。

ミュージカルではこのような現実と夢の隔たりが極端に薄れて感じることが特徴なのである。なので、ミュージカルの方が人間の頭の中を詳細に描きやすいのではないかと思う。今回の映画では例えばアが想像しているハリウッドというものにダンスと音楽を載せるだけであんなに迫力のあるミアワールドが展開されていた。

そして最後にミュージカルは理論では語りきれない、理論の域を超えた魅力がミュージカルにはある。

単純に考えてほしい、

映画の中のロマンティックな話に、感情を左右するダンスや、ノリのいい音楽、時には感情揺さぶる高音のきいた音楽が映画館いっぱいに流れるのである。それだけでおなか一杯になりそうであると思いませんかね!?

 

 

最後のシーンとメッセージとは!?

ここが映画では最も重要な部分であるのではないかと思う。この映画実に単純であるが、実に難しい。物語自体は純粋な恋愛物語であり、多くの人が楽しめるような内容になっている。

なので、完全に娯楽作品といえよう。しかし、一筋縄でいかないのが、この映画なのであると思う。作品の中に音楽や映画の専門知識がものすごく多くでてくるのが、わかるであろうか。ジャズのレジェンドたちの名前がぞろぞろ会話の中に入り交じり監督のジャズ愛を感じるのであった。

さらに映画も同じようなことが言えるであろう。

例えば、はじめの方のシーンで名作映画カサブランカについて語る場面があった。あそこで登場するメインキャラクターの俳優ハンフリーボガードの名前が会話に出てきていた。そこでセバスチャンはミアに

君のボガード君はどんな方なの?

と聞くシーンがあったが、まさしくおもしろい場面であると思う。映画を知っている人にはわかるような、あのような小さな小ネタがあの映画には散りばめられているのだ。なので、映画や音楽に精通している人はさらに映画ララランドというものを楽しむことができるのかもしれない。

 

そして、この映画が発するメッセージである。僕は一言で表すと、

自分の夢を優先するのであれば、それに伴う何かを犠牲にしなければいけない

ということに尽きると思う。セバスチャンはツアーで世界を飛び回るようになり、ミアはやっとパリで女優活動に本腰を入れて取り組むようにできるようになった。

しかし、あの映画はなにもかたることなく5年後になり、二人が決別していることがわかるのであった。そして、久しぶりに再会したクラブでは二人で作った思い出の曲の中であったかもしれない夢の幻想を描き、最後になにも語ることなく去っていくのであった。最後の目を合わせるシーンに焦点を当てよう。

僕の感覚ではあるが、最後彼らがあのような行動に移ったのは紛れもなく、彼らはその夢の中の生活を今からでも臨めるかという気持ちを込めてあの回想シーンを共有したが、曲が終わった頃にはもう二人は気付いていた。

もう二度と二人でまた幸せな家庭を築くことなどできない、と

そして、これからはお互い違うパートナーと運命を共にしていくと決めたのである。

最後の二人が向き合うシーンにはそんな意味合いが込められていたのであると思う。

 

あの二人が語るように、愛がほしいなら成功を捨てなければいけない。

逆に成功が欲しいなら愛をすてなければならないのである。これは紛れもなく大人の恋愛であり、彼らの仕事と生活の調整の葛藤を描いているのである。

日本では映画ドラマなどでよく見る、すべてを捨て恋愛を選びハッピーエンドというものがあるが、現実はそんな話ではないということのである。そして、ハリウッドで絶賛された理由の根底には彼らもおなじような体験を少なからずしているということである。これは監督自身の自伝的な要素が含まれているといわれているが、いま表舞台で活躍している彼らにも通ずることがあり、彼らの自身の経験に近いものにこの映画はなっているのかもしれない。

はじめの導入に本編128分では85%しか完成されないと書いたが、それは上記に記した彼らが別れた要因がしっかりと記されていないということである。これは監督があえてしたことだと僕は思う。この気持ちや実情、原因を僕ら観客自身がより合わせ、自分自身で最後はこの物語を完成させることができるという点である。人によってさまざまな理由が存在するので、あえてこの映画を一、一組のカップルの話だけにするのではなく、あえて語らない部分こそがこの映画の魅力を最大限に引き出しているのかもしれない。

そして最後にこの作品のミュージカル映画としても革新的な部分を記して終わりにしようかと思う。上記に記した通り、従来の名作ミュージカル映画への尊敬を示しているこの映画であるが、ミュージカルとしても新しい部分も垣間見れるのである。

例えば、この映画はミュージカルには割と珍しいある種のバットエンドであるということである。従来の映画は映画会社の意向がほとんどであるが、最後ヒロインが別れるといったような映画はものすごく少ないことであった。

しかし、この映画は最後別れて終わるのである。ここがもう一つこの映画の魅力であり、この映画二人が別の道を行くということにマイナスの印象を与えていないという点である。恋愛映画という観点から見るとこの映画は紛れもなくバッドエンドであるが、違う人生を歩むということが彼からからしたら悪いことではないということがわかる。

この映画は大人の恋愛映画なのであるが、同時に彼らが日々悩む愛と仕事の両立をミュージカルという切り口から非常に巧妙に描いているということである。

 

どうでしょうか、少しは映画ララランドに対する感覚は変わりましたでしょうか?

僕自身映画をいうものはさまざまな捉え方があり、十人十色であると思っています。それに決して正解などなくそれが一つの映画の魅力であると同時に思います。

これを見て自分なりにララランドという映画を今一度考えなおしていただけたらと思います。

 

びぇ!

 

 

 

 

ララランド:実は奥が深すぎる難解映画!?[解説と考察] part1

こんちくわ!Shygonです。

今回は今更ながら今年の目玉映画ララランドを熱く語りたいと思います!

しかし、なぜ今頃なのか

実際僕は公開日に観に行き、映画館ですでに4回観ているのです。

このコラム書こうと思えば公開日にかけたのです。ですが、僕はしなかった。

その理由は1つ。

単なるあらすじの説明と感想で埋めたくはなかったからです。

この映画、作品の本質的な部分を理解するのはとても難しいと思います。

でも、それこそが映画というものの面白さであり、魅力なのだと思います。

これはこの映画に限ったことではありませんが、特にこの映画は見る人によって解釈が違ってきます。

さらにパズルに例えると本編128分だけではこのパズル映画完成しないのです。ざっと85%しか埋まりません。あとの15%は見る人が埋める映画になっているのだと思います。じつはその15%何を入れても当てはまるピースなのです、と僕は考えます。

 

一体このことがどんな意味を示しているのか、これからご紹介します。

 

話は変わりますが、ララランドとアカデミー賞を分かち合った映画ムーンライトも同じようなことが言えると思います。

あの映画もかなり時間をかけてコラムを書きました。そちらも宜しかったらご覧ください。

 

もうこれをご覧の方のほとんどがすでに映画を鑑賞した後であると思います。

なのであらすじついては他のサイトをご覧下さい。

ではいくつかのカテゴリーに分け、熱く語り尽くしますよ!

 

キメ細やかな色使いが映画の進行を先導している!?

一度ご覧になったことのある方はわかると思うが、この映画色がとにかく綺麗。

観ているうちにポカポカと気持ちよくなっていくレベルなのである。

なぜか心地がいい。

しかし、気付かないうちにその感覚が徐々に薄れていくのだ。

そう、つまり、全体の色の志向が変化していることを意味するのである。

はじめのミアがパーティーに連れ出されるシーンでは赤、青、黄色、そして緑の衣装を着こなす彼女たちであった。そのようなシーンが永遠と続くのであった、と思われていた。しかしそんなことは永くは続かないのである。

この色使いの変化こそがこの映画のテーマであると思う。

僕の感覚であるが、この色の変化には2つの要素が含まれていると思う

 

いきなりミュージカルから勢いに乗って始まると同時に、色鮮やかな力強い衣装がスクリーン内を飛び回るのである。2人が出会い、恋に落ちたところまでその雰囲気で映画が進んでいくのであった。しかし、2人の中に亀裂が入り始めると同時に彼らの衣装含め様々な色が落ち着き始めるのである。

これが意味することは、

彼らの心情の上げ下げと色が密接な関係であることが読み取れるのだ。

つまり色使いの変化こそが、この映画の進行を助長しているといっても過言ではないということである。これが1つ目の要素であると思う。

 

そして、2つ目は色と現実と理想である。

ここでは冒頭のシーンに注目したい。ミアは女優を夢見てハリウッドにきた駆け出しの女優。セバスチャンは売れないジャスピアニストであった。

お互い夢を語り合い、自信に満ち溢れなんでもうまくいくと思っていたのである。しかし、現実を知り徐々にその情熱が薄れていくのである。

それが意味することはミアの目線から物語が語られているということである。

はじめのカラフルなハリウッドの世界はミアのようなハリウッドで活躍したいと思っている人たちのみが見る幻想であり、現実ではないのだ。

つまり徐々に色が薄れていくということはミアが現実を直視し始める分岐点であるのだ。明るい色というのは人の喜びなどポジティブな感情が含まれていることが多いのである。色が薄れていくことはそのプラスの感情の失墜を意味するのである。

このように色の推移が映画の進行の舵取りと視点の変化を意味するということなのである。

最後にこの映画の色使いはこのほかにミュージカルと撮影という観点においても深い関連性があるのである。このことについては次章で語り尽くそう。

 

 

撮影がこの映画に与える影響とは!?

次に撮影である。実はこの映画の撮影はミュージカル映画特有の撮影基質の元、撮られているのです。ミュージカルと映画ララランドの関連性については次章にて語るため、この回ではミュージカルと撮影そしてララランドの関係について触れておこう。

始めに撮影といえば、冒頭のシーンを思え浮かべるであろう。映画のはじまりと同時にロスアンゼルスの道のど真ん中でいきなり人々が踊りだし、楽しいノリでこの映画が始まっていく。

まさにココである。

よく見るとわかるが、このダンスシーンあんなにムチャしたカメラワークになっているにも関わらず、全くカットが切れていないのである。

つまり1カットであの冒頭のミュージカルシーンを撮っているということだ。実際には最後につなぎ合わせて1カットに見せているようだ。

ミュージカル映画の特徴として、なるべく多くの人をなるべく大きく映すのが肝となっていくのである。なので、従来のミュージカル映画で用いられていた横長のカメラを使用したのである。これはCinemascopeというものであるが、はじめの製作会社のクレジットシーンのとき、最後にやけにカラフルなロゴが出てきたのはこのためである。

CGができ映画産業に新しい風が吹き始め早40年弱経ったが、この映画は決して前ばかりを見ていないということが重要なポイントになってくると思う。この映画の一つの評価された点の一つが過去の風習、文化を尊重しつつ、新しいミュージカル映画を完成させているという点であると思うのである。

過去の文化の尊重とはつまり過去作品へのオマージュである。この映画様々な専門家や、監督自身へのインタビューからいろいろな映画からインスピレーションを経て、実際にこの映画に取り込んでいるのだ。

たとえば、あの名作ミュージカル、‘雨に唄えば’である。1952年にジーンケリーが監督、製作、主演をやったことで有名ですが、この映画の名シーンがララランドにも出てくる。はじめてミアとセバスチャンが丘の上でダンスを披露するシーンのとき、セバスチャンが踊り始める出だしが支柱に右手で捕まり振られるシーンがある。このシーンこそあの名作シーンのオマージュが込められているのだ。

次に日本のメディアの質問に1966年の映画東京流れ者の影響も少なからず、受けていると明言していた。これに関して僕の中ではこのシーンこそが東京流れ者のオマージュだと確信は得られなかったが、映画の中間当たりの夜道を歩くミアや、落ち込んでいるパートを描くときの部分が東京流れ者にソックリであると思う。

このように名作映画へのオマージュが撮影過程の中でされているのだ。他にも作品の元となったといわれている1977年のマーティンスコセッシ監督のニューヨークニューヨークや巴里のアメリカ人など様々な映画への尊敬を垣間見れるのである。

そして最後にセットについてである。この映画実は全部セットを実際に作り撮影に臨んでいるのである。この世の中セットなどなくても撮影はできる。CGですべてをつくり、映画として完成してしまう。さらにデジタル撮影が主流な現在においてフィルム撮影を望んだのであった。このことが意味することは昔ながらのミュージカル映画を目指したということなのです。ただこれだけきくと単たる時代に追いつけないフィルムメーカーに思えてしまうのである、

まるでジャズに対する気持ちを貫くセバスチャンのように。

しかし、デジタル撮影より、フィルム撮影の方がはるかに色の出方が鮮明なのである。色が 重要なこの映画にとって色の鮮やかさを捨てることは死を意味するのである。

 

そして次はカメラワークと二人の関係の変化である。この映画よく見ていると二人の出演時間がほぼ均等であるのではないかと思う。それは従来の恋愛映画にはない兆候なのかもしれない。どうしても一人の登場人物に偏ってしまうが、この映画は本当に交互に映しているのである。

さらにカメラワークに焦点を当てると面白いことが見えてくるのである。二人が良好な関係のときと亀裂の入った、あまりよろしくない関係のときとでカメラの枠の捉え方が違う気がする。仲のいい時は必ずと言っていいほど一つの場面に二人の顔が映し出され、表情が確認できるような状態なのである。しかし、関係の悪化とともにカメラの枠はより一人に焦点を置きたがっていた。これはカメラの動きから二人の関係の良好さを理解できるということである。

このようにこの映画を撮影という観点からものを見ると、従来の映画文化を尊重しつつも新しい映画に仕上げたということが理解できるのである。

 

今回はここまでとし、次回導入部分の85%の真意を探っていきたいと思います。

さらにミュージカル映画という観点からララランドを熱く語ります!

そしてあの映画が僕らにもたらすメッセージとは!?

 

 

shygon.hatenablog.com

 

びぇ!

Lion~25年目のただいま~の男の子可愛すぎる件について[考察と解説]

こんちくわ!Shygonです

今回は Lion 25年目のただいま を熱く語りたいと思います。あのハリウッドの暴君ハーベイワインスタインのプロデュースのこの作品は作品賞含むさまざまな部門で評価されています。

 

はじめに
この作品賞実は実話なんです。インドのある田舎街で迷子になった5歳の男の子が、25年の時を得て、家族を探し出す感動作になっています。
ある日、お兄ちゃんの仕事の手伝いをしていたサルーが止まっていた電車に乗り、ひと休憩。起きた時には遠く離れた、知らない別地に取り残されていた。
その後、オーストラリアに養子として出向くことになる。25年後、google mapが家族の再開を可能にしたのだ。

 

では様々なカテゴリーに分け、Lionの魅力を語っていきましょう!

 

映像の綺麗さよ!!
この映画、とにかく映像が綺麗すぎる。

カメラの性能も関係はしているであろうが、そこの領域をはるかに超えている、と感じるのである。
見せるところはしっかりカメラを引き、映像美を画面全体で表現する。人間同士の会話や、感情むき出しでそこにピントを当てたい時はそれ以外は目立たないよう最善の策を取られている。

映画の1つの醍醐味として、いま製作者がどこに、なにに焦点を当てているのか、それが作品の良し悪しを決める。この映画はそこのさじ加減が難しいにも関わらず、映像をどう見せるかの方法がとても巧みであると思う。
そして物語には起承転結がある。これに乗っ取らない物語に成功はない。

この映画、物語の起承転結は勿論、カメラワークや、カメラ構成で起承転結を物語っているというもの1つの特徴であり、同時に魅力である。

 

 

映像と音楽との絶大なマッチ!
起承転結を描くカメラワークがあるとどうしてももう1つ欲しくなるものである。
音楽。これはいい映像には不可欠である。

どの映画にもたいていメインテーマが設けられているが、この映画のメインテーマは感心物である。ジョーズのような、ジュラシックパークのような、ヘイトフルエイトのような、

先に見える現実や、希望を音楽だけで表現するのだ。ただそこには嵐が吹き入れるであろう航海が待ち受けている、ような感覚も伺うことができるのである。
まさにそんな要素を含んだ音楽が圧倒的な映像美とともに流れてくる、鳥肌の立たない人がいるのであろうか、そんな映画であるのだ。

 

サルーの存在
この映画、これが最大の魅力であると思う。いや、思いではなく、本当のことである。
このサルー可愛すぎる。切実に男女関係なくこれは反則レベルである。基本的に現実から過去を遡るような形式なので、悪魔で回想シーンのみの登場であるが、この魅力にみんな間違えなく瞬殺である。

ただここだけで終わらないのが、この映画。

おっさん化したサルーにも人として魅力の詰まった人物なのである。自分の故郷を探すと決めた後も自分の中で葛藤をするのだ。彼自身開けてはいけない玉手箱を開けようとしている気がし、周りの親しい人に自分の取り乱した姿を見せてしまう。
映画として、義母と話し合うシーン、彼女との口論は見ものである。感情のぶつかり合いと思いきや、これは心のぶつけ合いなのである。役柄上、普段感情をあまり表に出さないサルーであるが、映画として彼の真実を探し出すときの動揺は痺れるものがある。

義母を演じたニコールキットマンはさすがオスカー俳優だけあった。単なる感情むき出しの話し合いではなく、なぜかこころに響く美声。まるで、張り詰めた沈黙が僕らに投げかけるかのように空間全体で調和し、サルーと義母の会話を物語っている。
かたや、彼女との口論では普段見せない感情をむき出しで思いを伝えるのである。

この演技が認められ、ニコールキットマン、デブパテル、ルーニーマーラは見事アカデミー賞にノミネートされた。受賞には至らなかったが、3人とも存在感を残し、見事な結果であると思う。

 

最後に母と再開するのであるが、ここに1つオチ知らせざることが表向きになるのだ。最後のシーンにもしっかり工夫がされており、個人的には納得のいく作品であった。

作るたびに作品賞にかかってくるハーベイワインスタイン。いつまで僕のアイドルでいてくれるのか、楽しみである。

 

びぇ!

ムーンライト:なぜ作品賞!?その魅力を語り尽くす![解説と考察] part 2

 

はじめに

映画ムーンライトpart 2ということで映画の「本質的な部分」と「確信」について熱く語りたいと思います!

前回のキャラクターの魅力を存分に語りました。まだ読んでいない方は是非お願いします!

 

 

shygon.hatenablog.com

 

前回同様、カテゴリーに分け、語っていきます。

 さぁー今回も燃焼しますよ!!

 

 

圧倒的映像美が彩る黒人たち
映画の本質的な部分を探っていこう。part 1に書いたことがこの映画が評価された要因であるが、ここでは映画の技術的な部分も重要視したい。
革新的な技術がこの映画の質を、キャラの深みを持ち上げたのだと思う。
映像作りという観点から見るとこの映画は実に興味深いものがある。
黒人をどう表現するのかに対して究極系ををこの映画はなし遂げてみせた。
こんなに黒人が美しく、斬新的に描かれている映画は他にあるであろうか。
一言で、美しすぎる
いままでの肌の色で人間の評価が決まっていた時代から黒人は白人より劣等的な人種であるという固定概念があった。なので、必然的に映画というものも白人がより輝けるようにということが第一優先であった。最近になり、ようやく黒人の映画が評価されるようになってきたが、そのほとんどが黒人の奴隷や、苦し紛れに奮闘する話など、黒人の勇気付けにはなるが、彼らの本質的な部分をついた映画なかった。そこには必ず白人の存在があるという背景が映画にはあったのである。
しかし、この映画はその黒人に対する固定概念と積極的にブチ壊し新たな挑戦をしたといって過言ではない。
そこで監督は黒人がもっともスクリーン上で輝く方法として肌の光が反射している部分の色を抜き、白く光らせるために新たに青色を付け足すということを行なった。
夜中の海辺に立つシャロンを例に、海の青色と彼の反射しているときの青みが実に調和し、映画を超越して芸術の域を超えているのである。しかし、それこそが今回の映画ムーンライトの本質的な部分であると思う。劇中、フアンは幼少期のシャロンにこんなことを話しているのである。
「僕はキューバ出身なんだ。昔、僕(フアン)が海で遊んでいたら、黒人の男の子は月の下で青く光って見えるよねっていわれたんだ。」
というシーンがある。
これこそがこのムーンライトという映画の醍醐味であり、すべてであるのだ。

 


僕らに対するメッセージとは!?
最後のシーン、幼年期のシャロンが海辺でこちらを見つめる。場面が切り替わりムーンライトの文字がスクリーン一面に映り出され、エンドロールとともに静かなビート音が鳴り響く。ここでほとんどの観客が唇を噛み締め、この映画を賞賛するのだと思う。

 

黒人、貧困層、そしてLGBTを扱い、いまアメリカが直面している大きな社会的な問題に投げかけた。この話は単なる映画の中の話ではなく、実際に起こっていることなのだ。
この3つの問題に覆い被るかのようにドラックの現状を赤裸々に描いている。社会的地位の低い黒人貧困層には追い討ちをかけるかのようにドラックの誘惑が背後には存在するのだ。
実際に起きていることの現状だけ理解し、デスクワークで解決しようとしている人たちには彼らの心情や思いなど理解出来ない。
実話を描いた映画ほどインパクトがある映画はないと思う。まさにこの映画はいまアメリカで苦しんでいる人向けであるとともに人々がそれを知るキッカケにもなるはずである。
だが、ただドキュメンタリーのような現状の報告ではなく、同性愛ということだけで障害を受ける人たちの純粋な恋のお話でもあるという点である。感じる障害の卑劣さを描くのではなく、彼らのもがき、もがき続ける人生の話であるのだ。ただ人の不幸や彼らにのしかかる問題を超えて、ピュアなこれまでにない儚い恋物語は他にあるのであろうか。

しかし、それらの根底には必ず彼らの様々な苦痛が浮き彫りとなって僕らに伝わるのである。純粋な1人の儚い恋物語を体験していたはずが、静かなビート音とともにこの映画が贈るメッセージを僕らは噛み締めて感じることができるのである。

 

そして、やはり注目すべき箇所は最後の恋の発展である。はじめて心を許した相手と想いを馳せるのであったが、次の日は学校という不条理な環境の中彼らの関係に修復不可能な亀裂が生じる。その後、会うことがなく時間だけが過ぎていくのであった。しかし、10数年後、一本の電話から再開を果たすのであった。10数年のブランクがあったにもかかわらず、シャロンはその想いを10年越しでこう伝えるのであった。

 

「あれから(学校での事件)一度も他の人を愛したことはなかった。君がはじめてであり、唯一だ。」

 

その辺の始まる前から結果の見える恋愛映画とは一味も二味も違うことを理解して頂きたい。

あんなに酷い仕打ちを受けたにも関わらず、それを忘れたかのようにひたすら1人の男性を思い続ける一途な人間こんなにも儚く真正面に思い続ける恋というものがあるのか。性別の垣根を超えて、どんな恋愛映画より、素敵に見えるのはぼくだけであろうか。鳥肌がたち、開いた口が塞がらないような興奮を覚えされるのが映画ムーンライトなのである。

 

そして最後にこの映画と日本の関係性について言及しておきたい。正直アメリカの奥地の話に過ぎないため日本人には共感出来ないのではと考えていた。しかし、よく考えると様々なメッセージを僕ら日本人は受け取ることができると思う。マイノリティーのコミュニティには勿論、今後の映画製作への強いメッセージである。もう映画を楽しむ、完全な娯楽映画は終わりを迎えた。娯楽映画はこれからも永遠に人々の心に残り続けると思う。だが、中身のないメッセージ性のない映画に容赦はしない。
例をあげると、マーベルのキャプテンアメリカ:シビルウォーは上記の内容に概要する1つであると思う。娯楽映画として楽しめる反面、この映画には今のアメリカの政府の対応への風刺映画でもあるのだ。映画を通じて世の中を変えようとする動きが今の主流な映画製作であり、重要なことであるのだ。それを裏付けるかのようにムーンライトが評価されたのである。
ハリウッドの新たな時代の幕開けを象徴するムーンライトのアカデミー賞受賞。
バックグランド関係なく、すべての人間が同じ土俵で審査されるということがやっと現実味を帯びてきたのかもしれない。
そんな新たな時代に僕らは今いるのかもしれない。

びぇ!