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映画の魅力とは何なのか。見解を交え、熱く語っているブログです。映画をもっと知ってほしい、もっと好きになってほしい。それだけを願うブログであるのです。他にも様々な分野にも綴っております。ぜひご覧ください

名作アメリカンヒストリーXをなぜこんなにも愛しているのかを語る![考察と解説]

こんちくわ!Shygonです!

今回は僕の中でも特別な一本をご紹介したいと思います。全部合わせて7、800本くらいの映画をいままで見ている僕ですが、

100本に一本くらいのペースで本当に好きな、普段の生活の中で突然見たくなる映画があるのです。

 

今回ご紹介する映画もその中に数えられ、数少ない本当に好きな映画の一本です。

 

アメリカンヒストリーX

 

ではなぜこんなに僕が好きなのでしょうか。

今回は正確に伝えるため、細分化し、様々なカテゴリーに分けて語っていきます!

 

 

 

  • あらすじと背景

1998年製作の本作はアメリカ、ロサンゼルスを舞台に、白人至上主義でネオナチの中心的な人物であった兄貴とそれに影響される弟の兄弟物語を、過去シーンを途中で組み込み、なぜ兄弟が過激な思想に傾倒していったかを現在の時間軸と共に交互に進んでいく話です。

 

製作サイドの話をすると

監督のトニーケイは他に作品はなく、主にCMなどの監督を担当する人です。

その影響もあり、場面場面のインパクトがとても強く、見た後も鮮明に頭に残るほど画作りが印象的です。

 

主演のエドワードノートンがグループの中で中心的な位置を占める兄貴を演じています。

彼は本作以外に、バードマン(あるいは無知がもたらす予期せぬ奇跡)、真実の行方など

非常に映画のキャラクターとして変わったイカレキレ者を演じることが多いです。そんな本作も彼の特徴がしっかり反映されていて、彼の活躍が間違いなく映画の出来を左右しているに違いありません。

 

この映画の評価として世界最大級の映画データベースIMDbでは、全ての映画が候補としてある中、

トップ250にランクインしており、評価自体も8.5とかなり高評価であるのです。

 

 

 

 

  • 場面展開の特徴と影響

本作は非常に変わった場面展開をします。

はじめに、時間軸が2つあるのです。

1つ目は現在です。兄貴は人殺しで刑務所に3年入っていて、その後の出所した初日から映画がスタートします。

 

2つ目は過去です。現在軸で出所した兄貴は、以前のシンボルであったスキンヘッドから掛け離れ、普通の髪型に戻っているのでした。さらにあんなに白人至上主義として人種差別に傾倒していたにも関わらず、人が変わったかのようにムショ入り前の自分が導いていたネオナチの集団を脱退し、その彼らと対立するまで人が変わったのです。

では

なぜ彼があんなに傾倒していたのか

なぜあんな思想を持つようになったのか

を過去軸として描くのです。

 

白人至上主義に傾倒していった背景には、昔真面目に働いていた父親が黒人の麻薬売人に殺されたという悲しい過去があったのです。その情緒不安定な時期にネオナチの思想を持つようになってしまったのです。

そして、グループの中心的な存在になった矢先に刑務所に放り込まれるのですが、その中で囚人の大部分が黒人であり、そこで多人種との関わりを無理矢理にでも持つようになったのです。

この主人公というものはとても頭のいい人です。なぜなら環境が変わると徐々にですが自分の間違いを自分で見つけ、危険を顧みず行動に移すのです。

過去の経験が引きつり、有色人種に完全なる偏見を持っていたのがネオナチへ導いたのだと自分で気付くのです。

 

このようにこの2つの重要な場面を分けて、同時に描くことで、彼らがなぜどうなったのかということが非常にわかりやすくなり、見た後でも鮮明に頭に残る映画に出来上がるのです。

 

そして、その2つの対称的な場面を

白黒とカラーの映像に区別して描き分けているのです。

過去の場面では白黒の映像加工が施され、

現在軸ではカラー加工がされています。

完全に視覚的に区別することで、人物の背景を時間軸で切り分けて理解することができるのです。

 

そして、本作はこの白黒とカラー映像の区別を他の箇所で非常にうまく活用しています。

はじまりとおわりのシーンはどちらも有名なベニスビーチの浜辺で波が打ち寄せる箇所なのです。

冒頭では白黒であった映像が、終演間際のベニスビーチはカラーの永続加工がされているのです。

 

では一体この白黒とカラーの区別が成す意味とはなんなのでしょうか。それに関しては最後のコーナーでこの映画の訴えたいこと、つまり僕らへのメッセージについて語ります。

 

 

 

 

  • 印象的な画作りと影響

映画を見る上で、印象的なシーンや、言葉は観客を大いに奮い立たせ名勝負や名シーンが生まれるのは映画をみる一種の醍醐味だと思います。

例えば、ゴッドファーザーの登場シーンや、ヒートでのデニーロ演じる殺し屋がアルパチーノ演じる警察官に追い詰められるなど見所がいっぱいあります。

そんな中で、僕個人の意見としてアメリカンヒストリーXのあるシーンは数ある映画の中でも名シーンを極めていると思います。

過去を振り返るシーンにて、兄貴デレクが刑務所に入る理由となった、殺人事件を起こし現行犯逮捕されるシーンです。

もう完全にネオナチに呪われ、左胸にはナチスの刺青を彫った、狂気染みた顔をしたデレクを見たものは怖気付き、恐怖感以外感情が一切無くなるのです。そんな役作り、画面作りをする兄貴を演じたエドワードノートンは天才の何者でもありません。

 

さらにそれが白人至上主義に徐々に傾倒していく彼らの移り用は見事の一言に尽きると思います。

人というものは常に成長し、その判断材料はそのときにその人が影響を受けているものです。

そして、映画には何らかのキャラクターが登場し、彼らには感情の浮き沈みが存在し、その頂点こそが名シーンとなるデレクが警察に捕まるシーンなのです。そして、それから更生していくデレクもその名シーンとは対称的にとても見応えがあるものとなります。

 

 

 

 

  • この映画が僕らに訴え続けることとは

ココの箇所がこの映画の最大の魅力であり、

これを語らずしてこの映画を語ったとは言い切れません。

実はこの映画物語の筋書きはとてもシンプルで難解な点は何ひとつありません

ネタバレになりますが、最終的に兄貴デレクは出所後、人生をやり直すため、以前いたネオナチから即座に脱退し、弟も強制的にネオナチのような過激なグループとは縁を切ります。やっと兄弟を筆頭に家族全体が人種の違いだけで区別するという一方的な考えを捨て、家族を養うために社会復帰をしようとした矢先に弟は黒人グループに殺されてしまいます。

 

そして、この映画のタイトル、アメリカンヒストリーXの意味です。弟はネオナチにて中心的な存在であった兄貴を神のように拝んでおり、学校の宿題の読書感想文でヒトラーの本を絶賛しました。勿論、いまの学校の教育理念とそぐわないということで、兄デレクの影響が大きいと考えた校長は兄貴が弟の思考回路にどのような影響を与えているのか知るため、兄弟の物語として、それをアメリカンヒストリーXと題し、提出するように求めます。

つまり、この映画は決して兄デレクのネオナチへの傾倒と自分の間違えに気付くまでの、彼個人の話ではなく、それが兄弟含め家族全体に響き渡るというところまでを描いているのです。

 

そして、弟は校長に言われた通り宿題をしっかりやり次の日学校に行くのですが、渡す前に殺されてしまいます。そして、最後の締めのベニスビーチで弟が書いたエッセイをナレーション方式で読まれ、映画の幕が閉じるのです。

 

争いというものは決して何も生まない

 

これがアメリカンヒストリーXの結論であり、この映画の全てだったのです。

 

そして、冒頭と最後のベニスビーチの波打ちシーンの白黒とカラーについてです。

これについては確かな答えはないと思いますので、見たときにどう思うかが正解であると思います。なのでここでは僕個人の見解を述べさせていただきます。

 

せっかく正しい舵取りをし、まともに生活が始まった矢先にデレクは最愛の弟を亡くします。

僕は弟の最後の結論を元に考えると、その後もデレクはしっかりと社会復帰を果たすのではないかと思います。弟が殺された後は映画として描かれてはいませんが、

その複雑な終わり方は現代社会への投影なのではないかと思います。

人種を取り巻く問題はさらに深刻にかつ複雑化しました。

 

このような本当に腑に落ちない、やるせないようなスッキリしなさすぎる映画は他にありません。ですが、このやるせない、腑に落ちない気持ちこそがいまの人種を取り巻く問題の現状であり、それを描ききることを考えるとこの結末はとても納得がいくのです。

 

 

 

ここまでご覧になったみなさんはなにか気づくことがあるのではないかと思います。

 

本作は1998年製作です。

つまりアメリカンヒストリーXは1998年製作です。

この映画で扱っていることと、

いま現在アメリカが抱えている社会的な問題は20年経っても全く変わっていないということです。

 

ここ最近ISの台頭で世界で様々なテロに巻き込まれて来ました。その根底にはデレクのように過去の経験や現代社会への不満が募り、その発散の仕方を間違え、赤の他人に多大なる迷惑を掛けてしまうのです。それは本作のようにアメリカの一部だけの問題ではなく、世界中にそのような風習が広がってしまっているようなのです。

あいにくデレクはとても頭がキレるので、自分で気付き、更生をしました。ですが、最後の悲劇が表すように冒頭と最後の白黒とカラーの変化は

 

より事態が複雑化した

 

と考えるべきでしょう。

そして、もうひとつトランプ大統領です。前代未聞の結果で彼が新しい大統領になったのですが、そこにはデレクがネオナチに傾倒していったようにいまのアメリカの現状への怒りを持っている人たちがいるということを今回の大統領選にて確認できるのです。

本作の劇中で白人ではない人たちが経営しているお店を夜な夜な襲うシーンがありましたが、彼らは違法移民のひとたちを安く囲い込み、純アメリカ人である彼らの職などを奪っているとして憤慨していました。

このようにトランプ大統領が就任した背景には昔からいた主に白人たちの立場を奪われた人たちからの支持というものが大きかったのですから、そんな彼らが日常生活からどう思っているのかという断片的な一面を本作で描いているのです。

白人の立場から見るといまのアメリカの対応は数十年前から変わらず、その現状というものを本作、アメリカンヒストリーXでいまも垣間見ることもできるのです。

名作アラバマ物語を語り尽くす![考察と解説]

こんちくわ!Shygonです!

今回は名だたる名作が登録されているアメリカ映画商標の中でも、いまだに多くの人に愛されている映画をご紹介したいと思います。

 

アラバマ物語

 

は、1962年制作の本作は貧困層が多く住み、いまだに人種差別が根付いているアメリカ南部を舞台に、人々の葛藤を描いています。

 

あらすじは

人種的偏見が根強く残るアメリカ南部で、白人女性への暴行容疑で逮捕された黒人青年の事件を担当する弁護士アティカス・フィンチの物語。

 1930年代、アラバマ州の架空の田舎町メイカムで暮らすお転婆なジーン・ルイーズ"スカウト"フィンチと兄のジェムのフィンチ一家。スカウトとジェムの人生の転機となった3年間を綴っている。2人は一緒にゲームをしたり、アーサー"ブー"ラドリーの様子を探ったりしながら毎日元気に遊びまわっている無垢な子供である。ブーは家から出たことがなく、誰もその姿を見たことがないため様々な噂が飛び交っている。妻と死別した父親のアティカスは公平で穏やかで親身で、その知性と人柄で周囲から篤く信頼されている町の弁護士である。父の弁護士としての仕事を通し、人種差別、町にはびこる悪、貧困の悪化などを学び成長していく。

引用元Wikipedia(アラバマ物語 - Wikipedia)

 

主演はアメリカを代表するグレゴリーペッグが弁護士の父親を演じ、

無実の黒人の弁護を担当します。他にもゴッドファーザーなど後に多くの有名映画に出演するロバートデュバルが映画初出演しているなど、興味深い作品です。

 

では、様々なカテゴリーに分け、この作品を存分に語っていこうと思います。

 

 

  • なぜ未だに評価される、名作なのか!?

まず本作一言で表すと

 

正義、人種など人類の永遠な課題を、決して堅苦しい知識人がツラツラと解決していくのではなく、身分や人種が違う人達も含め様々な視点からそれらの課題を捉えようとしています。

 

どうしても裁判ものでは頭のいい人達が理論を並べ、物事の完全解決をしてしまう方向にどうしても行きがちなのです。

 

映画に関わらず、題が本作のように一筋縄で解説できなくなるといつも上記のように天才たちが登場し、僕らを惑わしがちなのだと思います。

 

しかし、これが人種差別が根強く残るド田舎に舞台が移るのです。

するとどうでしょうか。

一気に僕らの感覚が変わります。

そしてさらに、これに子供も一緒にこの討論会に参加するのです。

実際には参加はしませんが、子供から見た裁判というものも忠実に描いているのです。

これは悪く言えば話がグチャグチャになりかけなのです。

 

いつもの僕らの感覚では国を代表する頭脳の持ち主たちが都市部に集結し、そんな永遠の人類の課題の解説に奔走します。

たぶんほとんどの方がこのような物語展開に馴染みがあり、こちらの方を好みます。

 

ですが、実際はそんな方法では解決ができないのが現状であり、最近徐々に世界が変わりつつあると思います。

 

このような重たい課題含め、どんなことも決して1つの視点から解決するのはとても難しいのを僕ら人類はやっとわかってきました。

 

しかし、この映画は50年以上前に製作されているにも関わらず、当時の常識にとらわれず身分、人種、年代の色々な視点からあるひとつの事件を語っているのでます。

 

これはあくまで僕個人の意見ですが、何十年も前に様々な視点から物事を捉えようとする映画が他にあるのでしょうか。

そんな未来的な思考を持つ映画は何年経とうと人々の心の中に残り続けると思いっています。

そんな数少ない魅力的な映画こそが

アラバマ物語なのです。

 

そして、最後に成長過程において、子供ならではの心の葛藤というものがこの主題

アラバマ物語(原題:To kill the mockingbird)に直接繋がっていくのです。

 

次は視点ごとにアラバマ物語を語り尽くします!

 

 

弁護士の視点
この視点は物事を冷静にかつ理論的に捉えます弁護士という職業柄から感情論は一切ありません。

主人公を演じるグレゴリーペッグは二児の父でもあり、妻に先に絶たれたこともあり、一家をひとりで仕切っています。父として、弁護士としての2つの顔を持ち、物語はこの視点から語られますが、

大部分を占めていないというところをこの作品の魅力かと思います。

人種差別に屈することなく、事件の真相を求め解説に奔走します。しかし、黒人をかばっていると批判を買い、街の白人層から反発を受けることになってしまうのです。

単に事件を解決しようとする刑事映画ではなく、それ以上に色んな要素が混在するのです。その大きなひとつの要素として人種間に残るのが差別なのです。

 

 

貧困層かつ黒人の視点
この物語の本質的な部分に直結する事柄です。黒人というだけで、感情論に落ち潰され、多くの人の心の中で、本質的な部分の追求に邪魔が入るのです。

舞台が人種差別の残る南部というところにもこの作品の抱える大きな要因が隠されていると感じます。上記に示したように人種の違いというだけで人々は正常な思考回路ができなくなってしまうのです。

そして、貧困層という点です。この地域では歴史的な背景(1930年代の世界恐慌)の影響で、村のほとんどが貧困層なのです。映画の冒頭では、お金でお礼ができないとして、隣人が自分が育てた農作物を渡しにくるのです。

とても温厚な人柄であり、貧困でもそれに打ち負けず、行きていく姿を描いていたが、結局物語の最後でその彼こそがこの事件を起こしたであろう張本人であったのです。

何気ない田舎村の一部分の裏には、そんな村社会の垣根を超えて根付く問題があったということです。

 

 

子供の視点
本作の面白い点の中でもココを無視しては語れません。裁判ものなのにも関わらず、父親の周りの意見に惑わされない人柄を子供たちは彼らなりに考え、理解しようとするのです。なので、刑事事件を扱うお話なのに初めからちょいちょい子供の視点から学校なり、遊びなど考えていること全てを裁判とともに同時進行で語られるのです。

はじめは訳も分からず、只々流れるのですが、物語が進むと同時に彼らの生活が徐々に浮き彫りになり、その重要性を僕らは目の当たりにするのです。

そして、彼らなりに本作を理解し、彼らなりの答えの出す様こそがこの作品の最大の魅力かもしれません。

冒頭シーンで子供たちの好きそうな逸話を元に子供時代の朗らかな生活にホッとするが、その彼らが恐れるブーという人間がオチに直接関わり、一見子供の何気ない生活感もが本作を語る際に直接関わってくるのです。そして、原題To Kill the Mockingbirdの真相も彼らの心の葛藤と関わりがあるのです。これに関しては一番最後に言及します。

 

 

  • 時間が経っても伝え続ける本作のメッセージとは!?

正義とは。平和とは。

などいくら時間があっても解決しきれない事柄をある一部の人間が考えるのではなく、様々な人種、性別、そして年代の方たちひとりひとりの視点を忠実にかつ写実的に描いています。

その中で、個人個人が自分なりに理解しようとします。

例えば主人公の弁護士は感情に一切振り回されず論理的に物事を捉えます。

彼はトーマスジェファーソンが唱えた米国建国当時から唱えられる、全ての人間は生まれながらに平等である(All men are created equal)を元に真実を暴こうとするのです。

 

そして、子供は小さいなりに必死に考え物事を理解します。

周りの脅しに屈さず、ひたすら真実を暴こうとする父の敗北に我が同然に落ち込む彼らに

ひとりの女性がこんなことを囁くのです。

 

世の中には楽しくない仕事をする人も必要なの。

その内のひとりが貴方の父親

 

と。これは大人にとっては本質的な解決策にはなりませんが、彼ら子供にとってはとても重要なことであり、このようなことを乗り越えてこそ大人の人間へと成長していくのです。

 

最後に本作の原題To Kill the Mackingbirdの示す意味とはなんなのかです。

上記のように、人種差別のが残る社会においての正義を様々な視点で描いています。

しかし、この物語は実は他にも子供のたちの成長においての心の葛藤も読み取れるように思えるのです。

例を挙げると、あるシーンにおいて、野良犬を銃で退治する父親に子供たちがショックを受けてしまうのです。その会話の中で、

モノマネ鳥(To kill the mackingbird)は美しい声を出すし、害がないから殺すなという父親は人間へ害野良犬ある野良犬はいとも簡単に殺してしまうのです。

小さい子供にとって害のあるものは殺していいのか

ということに疑問を感じ、成長とともに心の葛藤があるのです。

 

本作は50年以上前に作られたものなのにも関わらず、いまの現代社会を生きる僕らに対して多くのメッセージを送り続けているのです。それが数十年経とうが、変わっていないというところにも映画という芸術が持つ魅力を感じます。

 

 

 

 

 

僕はこのブログで古い映画を見るよう主張し続けます。現代において、趣味の多様化によって映画を好んで見る人が減ってきているように思います。さらに古い映画に対して、多くの人は映像が古いという理由だけで見るのを拒むのです。

僕はそんな人達を決して批判はしませんが、とても悲しいのが正直な気持ちです。

僕個人の意見として、毎年日本だけで300〜400本の映画が劇場公開されるのに、

50年以上前に作られたものがまだ人々に愛され、残り続けているのです。

少し考えてほしいのです。毎年多くの新作が世に出回っても、残り続ける映画の凄さを知ってほしいのです。

 

そんな長い間人々の心の中に残り続け、今現代を生きる僕らが実際に手に取って感じることができるのです。

その数少ない名作の一本として常に挙げられるのが、本作アラバマ物語なのです。

 

 

 

ローガンの魅力とは?-劇中の西部劇って?[考察と解説]

こんちくわ!Shygonです!

今回はマーベル映画史上最高傑作と名高い

 

ローガン

 

を熱く語りたいと思います!

 

 

観た後の感想としては、

 

めちゃくちゃ面白い

 

という一言に尽きますよ!

それを裏付けるかのように世界最大の映画データベース、IMDbというサイトでは

娯楽作品には珍しい評価が を超えています!

他の作品の評価と比較すればわかりますが、そのサイトで評価8上を勝ち取るのは相当難しいのです。

そんな中であまり芸術性に乏しいアクション映画でこれほど世界の人たちに受け入れられているということがどれほどすごいのか。

 

今回はなぜそんな絶賛されているのかを自分なりに分析し、熱く語ります。

 

あらすじは

近未来2029年、数少ないミュータント(この映画シリーズで特殊な能力を持った人たちの総称、主人公ローガンもそのひとり)絶滅の危機にさらされていた。そんな中かつての勢いを失ったローガンことウルヴァリンは完全治癒能力を失い、お酒に溺れていた。そんな中11歳の少女の母親を名乗る女から助けを求められてしまう。はじめは断った彼であったが、実は少女はミュータントであり、彼の娘で、何者かに命を狙われていた。最後の決意をし、彼女を守ることを決意した。

 

 

様々なカテゴリーに分けて、解説します!

 

 

 

 

  • 残虐シーンの多様と影響

本来、マーベル映画の多くはヒーローを扱っており、大衆映画であるというのが一般常識です。

ヒーローという役柄から子供たちからも人気があり、正義が勝つといったようなお決まりのパターンと子供を熱狂させるなにか魅力的ななにかがその部類の映画には必ず伴ってきます。

例えば、アイアンマンです。彼は大富豪である反面、鉄の塊を身に、男子に魅力的な容姿に、戦い方をします。

次にマイティーソーです。彼は違う惑星の王様でありながら、地球に降り立ち自慢の腕力で敵を倒します。これもアイアンマン同様、王道のヒーロー映画であり、男女、年齢問わず老若男女に人気なのです(さすがに老人は好きではないかも‥)

 

そのような幅広い層を狙っているため、層を絞るような、やってはいけないことがひとつあるのです。

それは

 

残虐シーンを見せるということです。

 

 

これをすると年齢制限の厳しいこのご時世には、子供たちが見れなくなり、最終的にお金の面ではいい結果に繋がらないのです。

なので、戦いは綺麗に見せ、決して残虐な殺戮は見せないというのが

いままでの常識であり、当たり前だったのです。

 

しかし、この常識を変えたのが

昨年のヒット作、デッドプールです。

この作品はマーベルヒーローの一員でありながら、残虐に人殺しを行い、それを楽しむのです。

なので、子供には教育が悪いとヒーロー映画、前代未聞のR18公開されるという事態でした。

しかし、作品は絶賛の嵐でR18映画の中では史上最高の興行収入をあげる結果となりました。

デッドプールというキャラクターに焦点を当て、いままでのヒーロー映画の常識を打ち破ったのです。

そして、本作はその流れを組むように、

人殺しは残虐になりR15指定の劇場公開となりました。デッドプールにはあの作品なりの良さというものが残虐かつ酷いシーンで引き立ってたのです。

様々な理由が挙げられますが、今回はではなぜローガンという映画に残虐かつ酷いシーンが必要だったのでしょうか。

 

一番わかりやすい点は迫力が増すのです。

 

それによって臨場感高まり、観客がアクションシーンに熱狂するのです。そして本作ではローガン自身が背負っているものとアクションシーンには通ずるものがあるのです。

 

本作の背景とローガンのキャラクター、そして残虐シーンの多様の関連性については次章にお伝えします。

 

 

 

 

  • 背負っている事の違い

まず一般的な映画のヒーローたちをご紹介します。

スパイダーマンは愛する彼女を影ながらに守ろうとします。このように愛する者や、規模が大きくなると地球を守るといった具合になります。

 

しかし、今回のローガンでは、彼は仲間を失い、冒頭シーンでは蝉の抜け殻のように魂が抜けているのです。しかし、自分の娘と知った瞬間、自分の命と取って代わってでもかばおうとするのです。

 

 

客の層を絞ったので、見る人は子供のように現実離れした世界を愛するのではなく、現実を重視する年の人間が見るのです。なので、

地球を守るだとかそんな大きすぎる、いかにも映画の世界観ではなく、多くの人が日常生活で体験するようなことに少し映画的スパイスを加えたのです。

それがローガンという人物に共感し、映画を主観的に体験できるのです。

 

つまり、残虐な殺戮シーンをあえて見せることで、客層を絞り、その層に確実に共感を呼ぶため、彼らが日常生きる上でもありうる現実的な、かつ感情移入できるキャラクター設定が絶賛されるひとつの要因なのかもしれません。

 

そして、ローガンというキャラクターにはもうひとつ特徴があります。酒中毒であり、生きることに失望しているという、目を背けたくなる特質をこの映画で新たに加えました。

これこそ全ての人間のヒーローであったはずのローガンはそんな面影すらありません。

そんなジャンキーが娘の存在を知った瞬間命を捨てる勢いで敵に向かって行く姿はその辺のヒーロ映画にはない、無駄にカッコよく、よっぽど現実的なのです。

 

なので、枠組みで考えるとマーベルのヒーロー映画ではありますが、実際には娘を苦し紛れに守ろうとする、どうしようもない父親と娘の物語なのです。

これこそが、みなさんがマーベルのヒーロー映画を超えたと行っている理由であり、全てなのかもしれません。

 

 

 

 

  • 完全治癒でなくなった事が与える影響

このシリーズを観た方はお分かりかと思いますが、前作までは攻撃を受けても完全治癒するという特徴を持つヒーローなのです。しかし、今作から謎の病気にかかり完全治癒能力を失っているのです。いままではなにをされても回復するため危険を顧みず、突っ込んでいくのです。なので、完全な主人公的なヒーローでまさに最強なのです。

 

しかし、今作は最強ではなくなり、さらには上記に述べたように生きることに失望したジャンキーですこんな落差は他にあるのか、とツッコミたくなるくらい落ちぶれたヒーローなのです。

完全無欠な特徴こそがいままでのヒーロー映画の条件のひとつでしたが、違う路線の映画製作をする今作はこの必要不可欠であったその特徴を消し取ることこそが、

いままでの無鉄砲なキャラクター性から娘を苦し紛れに守ろうとする父親への方向転換に必要だったのかもしれません。

 

 

 

 

最後に

ここからはネタバレになりますが、

本作でローガンことウルヴァリンを演じるヒュージャックマンは引退を表明してしました。

なのでどういう形でウルヴァリンという役とさよならをするのかと観る前は疑問に思っておりました。

結果として次世代のミュータントを敵から守り抜きましたが、最後に力尽き、亡くなってしまいます。国から追われている幼いミュータントたちに自分の未来を託すのです。

 

まるで長年第一線で海賊たちを引っ張ってきた白ひげ(ワンピースのキャラクター)が自分の命と引き換えに、息子たちに未来を託すかのように、ローガンは自分の時代の終焉を語り、次世代へ期待するのとともに消えていくのです。

 

そして、劇中のホテルのシーンで名作西部劇シェーンの有名なセリフの代用をする場面がありました。

ローガンは父親として、娘の最後のメッセージとして、シェーンでのセリフを代用し、

 

 

「人間は人生を変えることができない。

例え正しい行いをしていても人殺しをした烙印からは逃れることができない。

だから家に帰ってママに伝えなさい。谷から銃は去ったと。」

 

 

この言葉を本作に置き換え、

ミュータントと人間の決別とこれからも必死に生きていくのだという意思表明をする父親としてのローガンから娘へ最初で最後のメッセージだったのです。

 

昔の名作映画のメッセージを代用し、時代の流れとともに父から娘へ確実に彼らに伝わった力強いメッセージが映画シェーンから映画ローガンへと伝わった瞬間が垣間見れるのです。

それこそが映画を愛し、一目置き、尊敬の意を示す最善の方法であると僕は思います。

 

びぇ!

「お早よう」の魅力とは?‐小津映画を語る![考察と解説]

こんちくわ!Shygonです!

 今回は日本人として知っておかなければならない監督、

 

小津安二郎

 

彼はその後の映画界において絶大なる影響をもたらした数少ない映画人のひとりです。

彼は日本の庶民を風情ある家族ドラマに仕上げ、かつ彼ら家族の感情を情緒豊かに表現します。

 

あらすじは

郊外の住宅地、長屋のように複数の家族が隣り合って暮らしている。林家の息子実(設楽幸嗣)と勇(島津雅彦)はテレビがほしいと両親にねだるが、聞き入れてもらえない。子供たちは、要求を聞き入れてもらえるまで口を利かないというストライキをして、最終的に買ってもらうのだった。  

 引用元Wikipedia(お早よう - Wikipedia)

 

1959年製作補本作は小津安二郎監督で50作目という節目の作品なのです。

本来の小津監督が得意とする家族物語を本作で拝見することができるのはとても興味深いですよね。さらにカラー映画として2作目であり、

早くも小津監督の実力をカラー映画でも証明する形となりました。

本作は家族の物語ではあるが、

特に子供同士のジョーク交じりの可愛らしいやりとりを色彩豊かな装飾とともに見ることができる。

 

 

 

お早ようを熱く語る!

本作では白黒テレビが庶民の間で普及し始めの日本を舞台に、

大人の現実を知らずにわがままな子供たちがいかに親にテレビを買わすのかをジョークを交えかつ、小津ワールド満載の中で彼らの心の葛藤が忠実に描かれています。

全く同じ格好をした仲の良い兄弟は隣のお金持ちの家にある白黒テレビを求めて毎日居候しているのです。親としては隣の家には言ってほしくないため注意するが、彼らはテレビを買えとしつこく迫るのです。

 

ではこの映画の魅力とは何なのであろうか

  • 色彩豊かな街並みと人物

いままでは小津映画を堪能する際は、視覚的な要素はそこまで多く小津映画の魅力の中に含まれているわけではありませんでした。それは白黒映画であったからです。

しかし、カラー映画になると彼の魅力というものはさらに格段と増すのです。

固定されたカメラの中に移る様々な色の絶妙なバランス、これをなんと言葉で表現すればいいのでしょうか。

方向性はヨーロッパの絵画展にいっているような感覚です。もちろん静止画ではなのですが、まるで1枚ですべてを語る絵画と比較するならば、集約された1枚の絵画を見るために2時間の絵画をみているような感覚なのです。

 

 

 

  • 全編通じて流行しているギャグ

これがこの映画の最大の魅力と言っても過言ではないかもしれない、それほど僕は好ききなのです。

男子学生の中で頭をつつくとオナラをするという一種のゲームが流行っていました。

この一見くだらないゲームを映画冒頭で男子生徒がやっていたのです。

しかし、そこだけで終わらず、中盤でも懲りずにやり、しまいにはオナラをたくさん出す方法の解説会話まで見せさせられるのです。

これはとても不思議なことなのですが、こんなことでも懲りなく見せられると

自然にその魅力に引き込まれるのです。最後まで飽きをしることなくやっているため、そのネタをみるために映画をみているのではと錯覚してしまいます。

これが小津映画の魅力の一種なのかもしれませんね。

 

 

 

  • 勘違いから起こる婦人内の噂

婦人会の会費の所在が行方不明になり、誰かがくすねているのではと疑い始めます。

結局勘違いということがわかるのですが、それが解決したと思ったら、

次は腹いせで子供に親がある特定の家族のみ無視しろと供しているのではという噂まで飛び交うようになります。これも実際は勘違いであり、真相はテレビを買ってくれない子供がだれにも口を利かなくなっただけの話でした。

この勘違いから各家の女性はとばっちりをさけるため様々な対策をとろうとします。

ですが実際は単なる勘違いであるので、見ている方はクスッと笑える冗談になるのです。

 

 

 

最後はやはりチャーミングな子供たちの存在でしょう。

兄貴の見様見真似で、服装まで一緒な弟くんがとっても可愛らしいのです。中盤から最後にかけてテレビを買ってもらうために親のご飯を食べないなど子供らしいストライキを兄とともにするのですが、弟くんおなかがすいて食べたいのです。

おばさんがおいしいお菓子を買ってきても本心食べたい気持ちを兄によって阻まれてしまうのです。とにかく兄のマネばかりしている弟は兄弟がいる方はあの感覚がとても共感できるのです。

そんな子供の目線と婦人の目線を使い分け冗談交じりの楽しいお話を作り上げた小津監督は本当に人間なのでしょうか

「東京暮色」の魅力とは?‐小津映画を語る![考察と解説]

こんちくわ!Shygonです!

 今回は日本人として知っておかなければならない監督、

 

小津安二郎

 

彼はその後の映画界において絶大なる影響をもたらした数少ない映画人のひとりです。

彼は日本の庶民を風情ある家族ドラマに仕上げ、かつ彼ら家族の感情を情緒豊かに表現します。

 

ではあらすじは

杉山周吉(笠智衆)は銀行に勤め、男手一つで子供達を育ててきた。ところが、姉の孝子(原節子)が夫との折り合いが悪くて幼い娘を連れて実家に戻ってくる。妹の明子(有馬稲子)は短期大学を出たばかりだが、遊び人の川口(高橋貞二)らと付き合うようになり、その中の一人である木村(田浦正巳)と肉体関係を持ち、彼の子を身籠ってしまう。木村は明子を避けるようになり明子は彼を捜して街をさまよう。中絶費用を用立てするため、明子は叔母の重子(杉村春子)に理由を言わずに金を借りようとするが断られ、重子からこれを聞いた周吉はいぶかしく思う。その頃、明子は雀荘の女主人喜久子(山田五十鈴)が自分のことを尋ねていたと聞き、彼女こそ自分の実母ではないかと孝子に質すが、孝子は即座に否定する。喜久子はかつて周吉が京城ソウル)に赴任していたときに周吉の部下と深い仲になり、出奔した過去があったのだ。明子は中絶手術を受けた後で、喜久子がやはり自分の母であることを知って自分は本当に父の子なのかと質す。 

 引用元Wikipedia(東京暮色 - Wikipedia)

 

1957年に製作された本作は普段の小津映画にはない珍しい特徴が何点かあるのです。

本作の深い散策の前にいくつか製作上の観点からいくつかご紹介したいと思います。

 

  • 小津映画最後の白黒映画!

基本的に小津安二郎という監督は勤勉なのです。なので、監督として軌道に乗り始めるとほぼ一年に1回のペースで新作を発表するのです。

この作品まで様々な名作を世に送り出してきたわけですが、今作を最後に白黒映画の製作をやめ、カラー映画へと方向転換をするのです。

そんな彼の従来の白黒映画への情熱が垣間見れる最後の作品ということで小津映画を語る上でとても貴重な映画なのです。

 

 

  • 全編通して内容が暗すぎる!

小津映画の醍醐味として家族にスポットを当て、日本の庶民を映し出すのに長けていますこの作品は本当に内容も何もかもすべてが暗いのです。

いままで家族の温かみなどを描いてきた彼にはとても珍しい作品です。

なので、共同脚本家と政策上何度も喧嘩が勃発したそうです。このくらい作風は前作の早春からそのような兆候が見られ、僕は彼の中でも「闇期」と勝手に読んでいます。

 

 

  • 大女優の唯一の出演と唯一の失敗作(と言われている)!

世界のクロサワこと黒澤明監督の作品など戦後を代表する大女優山田五十鈴が小津作品の中で唯一出演しています。

大女優ということもあり、彼女の演技がこの作品に厚みを持たせ、さらに暗い雰囲気の映画になったのです。

今までほんわかした家族物語を描いてきた小津にとって上記に示したように初めての試みになるわけです。

そのせいか、小津作品の中でも軒並み評価の低い作品となっています。ですが、僕はあまりそうは思わないのです。ではなぜなのか、

それをこれから語っていきます。

 

 

 

東京暮色を語る!

ココからはネタバレになりますので、ご注意ください。

父を演じる笠智衆と娘の原節子という位置づけはいつもと変わりませんが、

この二人の家族の物語ではないのが本作の特徴なのです。原節子の妹役の有馬稲子を主に家族が移り行く様を描いています。

本作がほんわかした家族物語ではないというのは妹がトラブルメーカーであり、その度に父と姉を困らせます。

はじめにチンピラ男の子供をお腹に宿してしまった妹は中絶費用を得るため、二人に隠しながら奔走します。それが解決したと思わせると妹は自分は父の子供ではないのではないかと疑い始めるのです。

 

母が誰であるのかということは妹だけには語られていなかったが、近くにある麻雀荘の女将さんでした。そして、彼女の思惑通り育ての父親は実父ではなかったのであった。

 

母親は父(笠智衆)が転勤中、子供を身ごもり家を出て行ったのであった。普段は家の中では一目置かれている父が久しぶりにお酒に飲まれるシーンがあったが、母が家を出て行ったとききっとそれを忘れるためにお酒に飲まれていたのでしょう。

 

そんなつらい父の経験を子供ながらに覚えている姉は絶対母を最後まで許すことなかった。

最後に自分の真実を知ってしまった妹は死んでしまい、家族として収束のめどがつかないことになってしまい、その責任を重く受け取った母は故郷北海道に戻る決意をします。そして戻る最後の晩に妹へ花を送りに行くが、姉に突き返されてしまう。

 

そんな中北海道へ出発する電車の中でかすかに子供のお迎えを待つ母。

 

しかしそこには彼女は来るはずもなく、それを知りつつも電車の窓を開け、顔を乗り出し、持っているのだ。そんな空しい母には心に大きな穴が開いたような虚無感が漂っているのであった。

はじめから暗い話で心にずっしり乗っかる重い話ではありましたが、言葉では表すことのできない、やるせない気持ちがじんわりとエンドロールとともに感じるのである。

 

よく小津映画に対して感情を描くのが下手という人がいます。

僕個人の意見としてはそんなのは真っ向から反対です。

ふつうに感情を自由自在にコントロールし、感情の変化がもろに出ているとします、

すると小津安二郎が描きたかった日本の風情ある情緒や家族というものをローポジションで描く小津調の良さがでないと思います。

 

笠智衆のような坦々と一瞬無感情のようにみえる父親の内から湧き出てくる視覚だけでは感じ取ることのできない日本古来の家族体系の美化は決してできません。

そしてこの作品に関してはその一見無頓着な父が怒りをあらわにし、父親の威厳が損なわれる場面がいくつか表現されています。

暗い作品ではありますがこれこそが日本の庶民家族の真相であり、すべてなのかもしれません。

 

びぇ!

「早春」の魅力とは?-小津映画を語る![考察と解説]

こんちくわ!Shygonです!

今回は日本人として知っておかなければならない監督、

 

小津安二郎

 

彼はその後の映画界において絶大なる影響をもたらした数少ない映画人のひとりです。

彼は日本の庶民を風情ある家族ドラマに仕上げ、かつ彼ら家族の感情を情緒豊かに表現します。そして今回は作品「早春」をご紹介します。

 

あらすじは

東京蒲田の住宅地に暮らし、丸の内のオフィスに通勤するサラリーマン正二(池部良)と昌子(淡島千景)は共働きの夫婦であるが、子供を疫痢で失って以来、お互いにしっくりいかないものを感じていた。そんな中、正二は通勤仲間の1人である「キンギョ」こと金子千代(岸惠子)と、成り行きから一夜を共にしてしまう。2人の仲にただならぬものを感じた昌子は、正二を責めて家を出ていく。そして、正二に岡山県三石への転勤話が持ち上がり、夫婦はそこでやり直すことを誓うのだった。

引用元Wikipedia(早春 (映画) - Wikipedia)

 

1956年に製作されたこの作品は小津映画恒例の原節子が出演していない唯一の作品となっています。ですが、他の笠智衆杉村春子は端役ではありますが、出演しています。

ではなぜこの作品のみ原節子は出演していなかったのでしょうか?

はじめにその背景から説明しましょう。

 

 

原節子はなぜ出ていないのか?

原節子は昭和の大スターとしてほとんどの小津映画に参加しています。

なので小津安二郎が映画界に名を残すことができたのは紛れもなく彼女のおかげなのです。しかし、今作早春はその原節子が出演しないのが映画自体の大きな味噌をなってくるわけです。

 

  • 「君の名は」のヒットの影響

1950年代初頭にTVドラマと映画を通してスターダムに乗り上がった女優岸恵子が本作では起用されました。本作でも彼女の良さが全面に表現されていますが、原節子とはタイプの違う女優なのです。映画製作者としてその当時のトレンドを取り込むのも重要と考えたのかもしれません。

 

 

 原節子といえば「永遠の処女」と死ぬまで言われるほどイメージが良い人であり清楚なのです。しかし、本作は不倫に走ってしまったある夫婦の関係の再構築を描いているため、いつもの小津作品ではない方向のものを作ろうとした本作には岸恵子はぴったりだったのです。岸恵子が悪役の方があっていると言っているのではなく、

彼女の雰囲気と本作が求める女性像があっていたのかもしれません。なお彼女の魅力で後に記述します。

 

 

 

「早春」を熱く語る!

職場ではある程度信頼を得ている正二(スギと映画では呼ばれていた)は通勤するときの電車が一緒であるという理由で電車仲間が数人いました。

そこの仲間たちで時々どこかに遊びに行くほど仲が良かったのです。

ある日のハイキングの夜キンギョと呼ばれる魅力的な女性と一夜を共にしてしまいます。自分には妻がいて、禁断の恋とわかっていてもそれにドップリ使ってしまいます。

 

そこでキンギョを演じるのが岸恵子なのです。

 

彼女は男にとってやみつきになりそうな中毒性のある女性なのです。そして一見性格がサラッとしているためつい妻持ちの男でもハマってしまうのです。

しかし、女の勘はこの時代から無視はできないのです。隠し事は必ずバレる、ましてや嘘の付けない男がいくらがんばっても無理なのです。

妻にバレますが、彼女はあえて泳がすのです。今のように女性が簡単に不倫を立証し世の中で生きていけるような時代ではないため彼女自身悩むのです。

最終的に耐えられなくなり、真実を語り数週間頭を冷やすため実家に帰ることになるのです。そこでスギ(夫)は事態を重く見るようになります。

丁度その時期に転勤の話が舞い込んでくると彼は苦渋の決断の末行くことを決めました。行くと決めても妻は家に一向に帰ってきません。

そこで送別会やら最後の挨拶回りやらをしますが、妻のことで頭はいっぱいなのです。

 

 

 

 

小津ワールド!!

この映画は小津映画ならではの良さがなじみ出ていると僕は感じました。

今流行しているような不倫を恋愛かのように美化し、描くことは決してせず、

当本人とその彼らを取り巻く人達が不倫というものに翻弄されている様を現実的に大胆に描き切っています。

劇中の会話に出てきますが、キンギョが電車仲間に説得されるシーンにて

 

我が身を抓って人の痛さを知れ

 

というように様々な障害が2人に積み重なるのです。

 

不倫というテーマなので、この話は家族の垣根を超え、職場まで関係する話しなため小津作品には大変珍しい家族会話のほかに職場でも会話も映し出され、家族の話と職場の話題が交互に語られるのです。

 

そして彼の作品では現実社会の投影もしっかりこの映画にも施されており、

不倫というものが家族という、いままで小津自身が描いていた温かい家族ドラマを翻弄し、一大事へと変わるかが身に浸みて実感できるのです。さらに女性の立場がまだ低いということも関係し、現代に見るからこそまた考えさせられる作品となっていました。

 

びぇ!

 

 

「東京物語」の魅力とは?-小津映画を語る![考察と解説]

こんちくわ!Shygonです!

 今回は日本人として絶対知っておかなければならない監督、

 

小津安二郎

 

彼はその後の映画界において絶大なる影響をもたらした数少ない映画人のひとりです。彼は日本の庶民を風情ある家族ドラマに仕上げ、かつ彼ら家族の感情を情緒豊かに表現します。

そして今回は彼の作品の中でも一番有名であり、今でも世界中から評価されている東京物語をご紹介します。

 

今作は1953年に製作され、大女優原節子が紀子を演じた紀子三部作の中でも一番最後の集大成となり、高度経済成長を背景に日本の家族体系が変化する様を描いています。

 

あらすじは

尾道に暮らす周吉とその妻のとみが東京に出掛ける。東京に暮らす子供たちの家を久方振りに訪ねるのだ。しかし、長男の幸一も長女の志げも毎日仕事が忙しくて両親をかまってやれない。寂しい思いをする2人を慰めたのが、戦死した次男の妻の紀子だった。紀子はわざわざ仕事を休んで、2人を東京名所の観光に連れて行く。周吉ととみは、子供たちからはあまり温かく接してもらえなかったがそれでも満足した表情を見せて尾道へ帰った。ところが、両親が帰郷して数日もしないうちに、とみが危篤状態であるとの電報が子供たちの元に届いた。子供たちが尾道の実家に到着した翌日の未明に、とみは死去した。とみの葬儀が終わった後、志げは次女の京子に形見の品をよこすよう催促する。紀子以外の子供たちは、葬儀が終わるとそそくさと帰って行った。京子は憤慨するが、紀子は義兄姉をかばい若い京子を静かに諭す。紀子が東京に帰る前に、周吉は上京した際の紀子の優しさに感謝を表す。妻の形見だといって時計を渡すと紀子は号泣する。がらんとした部屋で一人、周吉は静かな尾道の海を眺めるのだった。 

 引用元Wikipedia(東京物語 - Wikipedia)

この作品とにかく世界中の映画人が絶賛しています。日本を代表する監督といえば黒澤明の名が挙がってくるが、この人は彼より前に早くも自分のスタイルを確立し、

「日本人とは」という大変難しい質問に映画で答えた人

であると思います。

四季があり、伝統的な日本文化をこれほど正確にかつ魅力的に語る監督として彼の右にでる者は今現在いないと僕は思います。

 

そんななかでも東京物語はそんな彼の特徴が抜きん出て表現されています。

彼の作品のほとんどはいわゆる映画の華がありません。ただただ全編を通して家族のこじんまりした会話が続きます。しかし、その会話こそが小津映画の魅力であり、彼が映画を通して伝えたいメッセージでもあるのです。そして話に厚みを持たせるために特殊な人に焦点を当てるのではなく、

その当時の日本の一般家庭を描くことこそが日本を忠実にかつ魅力的に描き出せると

彼は考えたのです。

 

 

東京物語と高度経済成長

この作品、実は当時の日本の歴史的背景を重ね合わせてみると魅力が倍増するのです。

あの当時高度経済成長を期に若者が仕事を求めて都会に出ていくようになりました。

この家族もその例外ではなく、子供は成人すると都会へ出ていくのでした。

すると子供はどんどん親元を離れ始めるのです。これが核家族の始まりです。

 

尾道という穏やかな田舎に住む老人と時代の最先端を行く東京に身を置く若者を対比的に描くことで、日本の時代の家族体系の移り変わりを現実的にを映します。

 

 

 

時代の変化と家族の変化

母が亡くなり里帰りしてきた子供たちは葬式が終わると早速母からの形見をもらおうとしたり、その日に帰ろうとする姿を見た嫁入り前の末っ子京子が憤慨し、それを紀子に訴えるシーンが最後の方にありました。

紀子は兄姉の母に対する対応に怒っている京子に対して、みんな年をとるとそうなる、今は私(紀子)も京子に賛成だけれども、年をとると彼らのようになるのだと返答したのです。

彼女は彼らを決して非難することがなかったのです。

 

この映画においての紀子の位置づけについて触れておきたいと思います。

というのはこの映画、家族の話であるのに紀子は出てくる家族と直接血が繋がっていないのです。しかし僕はここに小津映画の魅力が詰まっていると思います。

あえて主要人物を家族の人間ではない人が加わるとその当時の家族像というものを

主観的にかつ客観的に描くことができるのではないかと思います。

 

最後のシーンにて父は子供ではない紀子に母の形見である時計を挙げるのです。そこに紀子と義父の間の友情を感じ、ほんわかする思いを感じるのです。

過激なアクションや、映画の王道芸を少しも描かず家族像を描くことのみに重点を置き、家族をひたすら描き続ける小津安二郎

僕はそんなに彼について知っているわけではないが、

家族物語以外に必要のない全ての観点を捨て、家族内の感情や時代に翻弄される彼らの姿を描くことを貫いた映画

 

東京物語

 

そんな頂点を極めたこの作品ほど映画として完成後が高いものは他にどれほど世の中に存在するのであろうか。

父と娘と彼らを取り巻く家族ドラマ、晩春は僕の大のお気に入り作品であるが、この作品もこれに匹敵するくらいの見た後に心にズンと圧し掛かる「何か」を僕は感じたのであった。

 

びぇ!