映画『ブレードランナー』をなぜこんなにも愛しているのかを語る![考察と解説] (ネタバレ)
こんちくわ!Shygonです!
今回は「カルト映画の金字塔」と言われる
ブレードランナー(Blade Runner)
を熱く語りたいと思います。
1982年に公開された本作は、監督を巨匠リドリー・スコットが務めたことから公開前に脚光を浴びたそうです。
しかし、いざふたを開けると大コケだったのです。その後年々着々とファンを増やしていき、僅かな層ながら絶大的な人気を誇ってきたカルト映画の象徴とも言えるべき作品です。
35年ぶりに新作「ブレード・ランナー2049」が公開され、再び脚光を浴びましたが、一体この前作ブレードランナーをしっかり理解して新作を見る方がどれほどいらっしゃるでしょうか?
実際にこの作品の意図が分からずに新作を見に行くという方も少ないと思います。
なぜならそれが本作が長年カルト映画として愛し続けられた要因だからであり、とても理解するのが難しい難解映画であるからです。
サクッとあらすじ
近未来2019年ロサンゼルス。環境破壊で宇宙へ移住が成される中、技術の発展からレプリカント(ロボット)による過酷な強制労働が行われていた。
しかし、そんな彼らも数年経てば感情が芽生え、人間に反逆するようになっていく。そんな中、そのレプリカントを殺害する特別警察デッカードに仕事が舞い降りる。
地球に4体のレプリカントが潜伏しているため、それを全て対処するというものだった。しかし、その戦いは想像を絶するものであったのだ。。。
こんな今ではありきたりの設定に一見陳腐に見えがちの登場人物たち。一体どこに映画史を変えたほどの魅力が潜んでいたというのでしょうか。
様々なカテゴリーに分け、熱く語っていきたいと思います。
「1982」が意味する歴史的背景とは
時は1982年。この年に本作が公開されたわけですが、この数字が示す時代は映画史の中でも特に重要であるのです。
1977年、ある一本の影響で映画製作においての方向性がその後ガラッと変わります。
同年に公開された「スター・ウォーズ」は興行的に成功しただけでなく、人々の映画の常識そのもの自体を変えました。公開後40年経ったいまでもなお多くのファンを持つ、いわば名作なわけです。
様々な思惑が混在するハリウッドでは、スターウォーズの以前は
SF映画は陳腐、子供の見るものだ
という認識が人々の中には存在し、全く見向きもされませんでした。
しかし、「スター・ウォーズ」の登場はその常識を根本的に変え、人々はSF映画の熱狂の渦に溶け込んでいったのでした。
それからハリウッドでは様々なSF映画が脚光を浴びる中、スティーブン・スピルバーグ監督の「E.T」が1982年に公開されるとその年の興行収入第一位に踊りだすだけではなく、全世界興行収入の記録をも塗り替えるほどSF映画の波にハリウッドは飲み込まれていたのでした。
上記に述べたように本作「ブレード・ランナー」が興行的に成功しなかったのは同年1982年に「E.T」が公開していたからなのです。「E.T」や「スター・ウォーズ」のようなSF映画が世の中に浸透していく中、
統制され腐敗したディストピア的近未来を描く
「ブレード・ランナー」はそんな映画たちとは真逆の方向の映画であったのです。
明るい希望を持てるようなSF映画が大人気の中、本作は全く違う立場での近未来を描くものです。しかし、ではなぜ本作は腐敗した近未来を描くながらもいまなお名作なのでしょうか?
答えの一部は、「スター・ウォーズ」や「E.T」の世界観の中には描き切れなかった斬新なアイデアと設定があったからです。
詳しくは最後の章で熱く語りますが、本作まではSFの世界観とは明るくて希望の持てる話でした。
しかし、「ブレード・ランナー」ではそれをあえて悲観的に捉え、想像したら絶望しそうな世界観を描くのでした。
これについては本作の監督リドリー・スコットが本作を手掛けるときに参考にしたといわれている作品があるため、触れておきます。
「SF映画の原点にして頂点」と言われる、1926年公開の「メトロポリス」の統制され腐敗したディストピアを描き、多くのSF映画に影響を与えております。
「ブレードランナー」に出てくる都市の中心部ともいわれる壮大な建物はこの映画の頭脳的存在の建物と類似しているのです。「メトロポリス」の影響もあり、それまでの多くのSF映画では近未来は町中どこを見渡しても立派な建物だらけなのです。
しかし、「ブレード・ランナー」では、立派な建物が立ち並ぶ中、そのすぐ真下では腐敗した街並みにホームレスのような人たちが蔓延る世界が広がっているのです。
いままで、SF映画の中で、近未来が描かれるとそれはすべて完璧な建物しかなく、腐敗した街並みは過去の産物であったのです。
その時代から数十年が本当に経ちましたが、全てが完璧で綺麗な建物が立ち尽くす世界には微塵も近づいていないのです。
それよりかは本作「ブレード・ランナー」で描かれる最先端の技術と過去の負の遺産が共存する世界になっているではないでしょうか。そんな本当の未来を数十年も前から本作は予言していたのです。
技術的に本作が評価された理由を紐解く
SF映画の中でも斬新的なディストピア映画である本作はその管理された近未来を描くため細部まで徹底して作り来れています。本作の世界観をリアルに描くため様々な小道具が使われます。
スモーク、ネオン、霧を照らすスポットライトは同時に閉寒感と奥行きを表現し、広告などのライドが常に四方八方照らしているのは、監視された社会を表現し、そして、音楽はジャズとシンセサイザーの重音がより一層不気味な雰囲気を作り上げています。
これぞサイバーパンク的世界観のイメージを徹底して目指した頂点であり、本作の基になった原作「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」への最高のリスペクトな気がします。
そして、本作の特撮を担当した「ダクラス・トランブル」は自分の名前が一種の技術として命名されるほど有名であり、彼の技術的な側面の画期的なアイデアがどれだけ本作で活躍したのか計り知れません。
では次になぜ今作は「カルト映画の金字塔」とまでいわれるようになったのでしょうか?それは何度見ても作品の意図がわからず、ファンの間では常に様々な説が飛び交っている状況です。
つまり、一度見ただけでは完全に理解などできず、何回も見て研究する必要のある映画なのです。
そして、「ブレードランナー」は計5種類も存在し、結末がバージョンによっても異なってくるのです。
そんな様々なバージョンが存在する映画はカルト映画には多く、例を挙げると1985年に公開された「未来世紀ブラジル」もカルト映画としていまもなお人気を誇っています。
細部に至るところまで様々な伏線を張っていると今作はいわれているので、その一部をご紹介します。
タイトルにもある「ブレードランナー」とはレプリカントを抹殺する特殊警察です。Balde(ブレード) Runner(走る人)の名前の由来から映画のいたるところに扇風機の羽根やタケコプターのようにまわる天井についたデカいブレードがあります。
次に、この作品の基になった、根底にあるものについてです。
実は聖書の由来の「贖罪(しょくざい)の生贄」にて堕天使アザゼルに駆逐される羊たちの話に主人公デッカードの人物像と重なる部分があるといわれています。
本編のほとんどの時間が暗闇の中描かれているのにも理由があるのです。
回転する挿絵を鏡を介してみることができる装置であり、アニメーション技術のはじまりでもある「プラキシノ・スコープ」の見える世界をそのまま本作「ブレード・ランナー」では再現されているようです。
そして、折り紙を折って、主人公デッカードの前に置くという印象的なシーンにも様々なメッセージが隠されているといわれています。
ディレクターズカット版が公開されると、いままで謎に包まれていたユニーコーンを彷彿させる折り紙のシーンの謎が説かれたのです。
このバージョンではとても衝撃的な結末を彷彿させることからファンの間ではとても話題になりました。
ユニコーンの結末が導いたことは、
実はデッカードがレプリカントであった!?
という結論に行き着くのでした。レプリカントを狩っていた者自体がレプリカントかもしれないという結末には映画として成り立つのか不思議に思ってしまうほどです。
これに関してはのちに監督の「リドリースコット」はただ想像の幅を広げたかったと語っていますが、真相は謎に包まれたままです。
このように、これらは「ブレードランナー」の真意を読み解く一部分でしかありませんが、
1シーン、1シーンに意味があり
それらが集まってやっと
2時間の映画が成り立っている
ということです。
本編二時間の中で、欠けていいシーンなど一つもなくその全ての細かなシーンが全て集まってはじめて名作「ブレード・ランナー」が完成するということです。
全てのシーンや事柄に意味を持つ映画など他に存在するのでしょうか。そう疑問を持つくらいよく考えられており、映画の枠を超え、芸術の域をも超えてしまっているのではないかと僕は思っているわけです。
込められた思いと本作の魅力とは
最終章についに突入です。ここまで様々な本作の魅力を存分に語ってきましたが、ここからが本作の本当の魅力です。
技術が急速に発展し、ロボットが人間にとって代わって生活の至るところまでを担うようになりました。
人工知能の急速な発展でロボットたちが自分で考え、決断を出す日ももう遠い未来の話ではありません。
「ブレード・ランナー」では2019年の近未来を舞台にレプリカント(ロボット)の能力は人間と同レベルか超えるまでの領域まで発達した世界が描かれています。
考えてみてください?
1982年に作られた映画の近未来がいま僕らが生きる現代社会とほぼ変わっていないということです。
1秒先のことが予言できないのにも関わらず、この映画は数十年後の社会をきっちり予言できている恐ろしさを感じてほしいものです。
そして、いま僕らが抱える技術を超え、ロボットたちは自ら感情を持ち始めたというのがブレードランナーの世界観です。
するとどうでしょうか?
人間とロボットの違いはなんでしょうか?
いままで感情の有無や自ら考えることができるか否かをロボットと人間の違いとして考えてきたぼくらはそれらの差が埋まるとかれらと一体どこが違うのでしょうか?
その差がなくなりはじめたところを本作では扱っているのです。その実に難しい倫理的な問題をこの映画は扱いどうするべきなのかという問題提起をしているようにこの映画を見ると思うのです。
その題材を扱うにあたって、「ブレード・ランナー」のレプリカントは感情以外はなにも変わらず、製造後数年たてば感情が生じてきます。
そして、安全装置を同時に持ちと、4年が寿命となりそれ以上は生きれない設定の基映画が進んでいきます。
感情をもつために記憶を植え付けられ、自分では十年前の記憶があるにもかかわらずレプリカントの可能性もあり、自分でも人間かレプリカントかもわからなくなってしまいます。
上記したように、そんな理由からレプリカントを狩る立場の者でさえ、レプリカントではというこのありえるのです。
これからも様々な技術が開発されていく中で、人間とロボットの区別は?という永遠に答えの出ないような問題を僕たちは考えなければいけないのかもしれません。
公開当時よりレプリカントは技術の発展で現実味を帯びているため、ますます映画「ブレード・ランナー」は現実感が増すのです。
実はこんなに語ってもまだ本作の伝えるメッセージというのは一部分でしかないのです。最後の敵の言葉の意味や意味深な描写が数えきれないほどです。
しかし、ここからは自分で考え結論を出す。考えることが重要であり、そのゴールの検討がつかないのがカルト映画の魅力です。
びぇ!