名作映画『アラバマ物語』を徹底的に考察&解説!【あらすじ感想ネタバレあり】
こんちくわ!Shygonです!
今回は名だたる名作が登録されているアメリカ映画商標の中でも、いまだに多くの人に愛されている映画をご紹介したいと思います。
アラバマ物語
1962年製作の本作は貧困層が多く住み、いまだに人種差別が根付いているアメリカ南部を舞台に、人々の葛藤を描いています。
サクッとあらすじ
人種的偏見が根強く残るアメリカ南部で、白人女性への暴行容疑で逮捕された黒人青年の事件を担当する弁護士アティカス・フィンチの物語。
1930年代、アラバマ州の架空の田舎町メイカムで暮らすお転婆なジーンと兄のジェムのフィンチ一家。スカウトとジェムの人生の転機となった3年間を綴っている。
妻と死別した父親のアティカスは公平で穏やかで親身で、その知性と人柄で周囲から篤く信頼されている町の弁護士である。
父の弁護士としての仕事を通し、人種差別、町にはびこる悪、貧困の悪化などを学び成長していく。
引用元Wikipedia(アラバマ物語 - Wikipedia)
主演はアメリカを代表するグレゴリー・ペッグが弁護士の父親を演じ、無実の黒人の弁護を担当します。
他にもゴッドファーザーなど後に多くの有名映画に出演するロバートデュバルが映画初出演しているなど、興味深い作品です。
では、様々なカテゴリーに分け、この作品を存分に語っていこうと思います。
なぜ未だに評価される名作なのか!?
まず本作一言で表すと
正義、人種など人類の永遠な課題を、決して堅苦しい知識人がツラツラと解決していくのではなく、身分や人種が違う人達も含め様々な視点からそれらの課題を捉えようとしています。
どうしても裁判ものでは頭のいい人達が理論を並べ、物事の完全解決をしてしまう方向にどうしても行きがちなのです。
映画に関わらず、題が本作のように一筋縄で解説できなくなるといつも上記のように天才たちが登場し、僕らを惑わしがちなのだと思います。
しかし、これが人種差別が根強く残るド田舎に舞台が移ります。するとどうでしょうか。一気に僕らの感覚が変わります。
さらに、これに子供も一緒にこの討論会に参加するのです。実際には参加はしませんが、子供から見た裁判というものも忠実に描いているのです。
これは悪く言えば話がグチャグチャになりかけなのです。
いつもの僕らの感覚では国を代表する頭脳の持ち主たちが都市部に集結し、そんな永遠の人類の課題の解説に奔走します。
ほとんどの方がこのような物語展開に馴染みがあり、こちらの方を好みます。
ですが、実際はそんな方法では解決ができないのが現状であり、最近徐々に世界が変わりつつあると思います。
このような重たい課題含め、どんなことも決して1つの視点から解決するのはとても難しいのを僕ら人類はやっとわかってきました。
この映画は
50年以上前に製作されているにも関わらず
当時の常識にとらわれず
身分、人種、年代の色々な視点から
あるひとつの事件を語っているのです。
これはあくまで僕個人の意見ですが、何十年も前に様々な視点から物事を捉えようとする映画が他にあるのでしょうか。
そんな未来的な思考を持つ映画は何年経とうと人々の心の中に残り続けると思いっています。そんな数少ない魅力的な映画こそがアラバマ物語なのです。
そして、最後に成長過程において、子供ならではの心の葛藤というものがこの主題
アラバマ物語(原題:To kill the mockingbird)に直接繋がっていくのです。
次は視点ごとにアラバマ物語を語り尽くします!
視点ごとに異なる物事、アラバマ物語
弁護士の視点
この視点は物事を冷静さつ論理的に捉えます。弁護士という職業柄からの感情論は一切ありません。
主人公を演じるグレゴリーペッグは二児の父でもあり、妻に先に絶たれたこともあり、一家をひとりで仕切っています。
父として、弁護士としての2つの顔を持ち、物語はこの視点から語られますが、大部分を占めていないというところをこの作品の魅力かと思います。
人種差別に屈することなく、事件の真相を求め解説に奔走します。しかし、黒人をかばっていると批判を買い、街の白人層から反発を受けることになってしまうのです。
単に事件を解決しようとする刑事映画ではなく、それ以上に色んな要素が混在するのです。その大きなひとつの要素として人種間に残るのが差別なのです。
貧困層かつ黒人の視点
この物語の本質的な部分に直結する事柄です。黒人というだけで、感情論に落ち潰され、多くの人の心の中で、本質的な部分の追求に邪魔が入るのです。
舞台が人種差別の残る南部というところにもこの作品の抱える大きな要因が隠されていると感じます。
上記に示したように人種の違いというだけで人々は正常な思考回路ができなくなってしまうのです。
そして、貧困層という点です。この地域では歴史的な背景(1930年代の世界恐慌)の影響で、村のほとんどが貧困層なのです。
映画の冒頭では、お金でお礼ができないとして、隣人が自分が育てた農作物を渡しにくるのです。
とても温厚な人柄であり、貧困でもそれに打ち負けず、行きていく姿を描いていたが、結局物語の最後でその彼こそがこの事件を起こしたであろう張本人であったのです。
何気ない田舎村の一部分の裏には、そんな村社会の垣根を超えて根付く問題があったということです。
子供の視点
本作の面白い点の中でもココを無視しては語れません。裁判ものなのにも関わらず、父親の周りの意見に惑わされない人柄を子供たちは彼らなりに考え、理解しようとするのです。
なので、刑事事件を扱うお話なのに初めからちょいちょい子供の視点から学校なり、遊びなど考えていること全てを裁判とともに同時進行で語られるのです。
はじめは訳も分からず、只々流れるのですが、物語が進むと同時に彼らの生活が徐々に浮き彫りになり、その重要性を僕らは目の当たりにするのです。
そして、彼らなりに本作を理解し、彼らなりの答えの出す様こそがこの作品の最大の魅力かもしれません。
冒頭シーンで子供たちの好きそうな逸話を元に子供時代の朗らかな生活にホッとするが、その彼らが恐れるブーという人間がオチに直接関わり、一見子供の何気ない生活感もが本作を語る際に直接関わってくるのです。
そして、原題"To Kill the Mockingbird"の真相も彼らの心の葛藤と関わりがあるのです。これに関しては一番最後に言及します。
時間が経っても伝え続ける本作のメッセージとは!?
正義とは? 平和とは?
などいくら時間があっても解決しきれない事柄をある一部の人間が考えるのではなく、様々な人種、性別、そして年代の方たちひとりひとりの視点を忠実にかつ写実的に描いています。その中で、個人個人が自分なりに理解しようとします。
例えば主人公の弁護士は感情に一切振り回されず論理的に物事を捉えます。
彼はトーマス・ジェファーソンが唱えた米国建国当時から唱えられる、全ての人間は生まれながらに平等である(All men are created equal)を元に真実を暴こうとするのです。
そして、子供は小さいなりに必死に考え物事を理解します。周りの脅しに屈さず、ひたすら真実を暴こうとする父の敗北に我が同然に落ち込む彼らにひとりの女性がこんなことを囁くのです。
世の中には楽しくない仕事をする人も必要なの。
そのうちのひとりがあなたの父親よ
と。
これは大人にとっては本質的な解決策にはなりませんが、彼ら子供にとってはとても重要なことであり、このようなことを乗り越えてこそ大人の人間へと成長していくのです。
最後に本作の原題To Kill the Mackingbirdの示す意味とはなんなのかです。上記のように、人種差別のが残る社会においての正義を様々な視点で描いています。
しかし、この物語は実は他にも子供のたちの成長においての心の葛藤も読み取れるように思えるのです。
例を挙げると、あるシーンにおいて、野良犬を銃で退治する父親に子供たちがショックを受けてしまうのです。
その会話の中で、モノマネ鳥(To kill the mackingbird)は美しい声を出すし、害がないから殺すなという父親は人間へ害野良犬ある野良犬はいとも簡単に殺してしまうのです。
小さい子供にとって害のあるものは殺していいのか?
ということに疑問を感じ、成長とともに心の葛藤があるのです。
本作は50年以上前に作られたものなのにも関わらず、いまの現代社会を生きる僕らに対して多くのメッセージを送り続けているのです。
それが数十年経とうが、変わっていないというところにも映画という芸術が持つ魅力を感じます。
僕はアメリカの大学に通っていて、2018年夏にアメリカをヒッチハイクで横断した経験があります。
本作の舞台になったアラバマ州にも足を運びましたが、この現状が改善されたとは言い難い状況が今でも続いています。
筆者の意見はこのブログで古い映画を見るよう主張し続けます。現代において、趣味の多様化によって映画を好んで見る人が減ってきているように思います。
さらに古い映画に対して、多くの人は映像が古いという理由だけで見るのを拒むのです。僕はそんな人達を決して批判はしませんが、とても悲しいのが正直な気持ちです。
僕個人の意見として、毎年日本だけで300〜400本の映画が劇場公開されるのに、50年以上前に作られたものがまだ人々に愛され、残り続けているのです。
少し考えてください。毎年多くの新作が世に出回っても、残り続ける映画の凄さを知ってほしいです。
そんな長い間人々の心の中に残り続け、今現代を生きる僕らが実際に手に取って感じることができる。
その数少ない名作の一本として常に挙げられるのが、本作『アラバマ物語』なのだ。
びぇ!
映画「ローガン」 あらすじ感想 : 父親とヒーローとして美しく散って行くウルヴァリンの人生とは-劇中の西部劇って?
こんちくわ!Shygonです!
今回はマーベル映画史上最高傑作と名高い
ローガン
を熱く語りたいと思います!
2017年に製作された本作はX-MENのウルヴァリンシリーズ最終章に位置付けられており、本作にてウルヴァリンを長年演じてきたヒュー・ジャックマンは本作にて引退するようです。
観た後の感想としてはめちゃくちゃ面白いという一言に尽きますよ!
それを裏付けるかのように世界最大の映画データベース、IMDb
そんな中であまり芸術性に乏しいアクション映画でこれほど世界の
今回はなぜそんな絶賛されているのかを自分なりに分析し、
サクッとあらすじ
近未来2029年、数少ないミュータント(この映画シリーズで特殊な能力
そんな中かつての勢いを失ったローガンことウルヴァリンは完全治癒能力を失い、お酒に溺れていた。
そんな中11歳の少女の母親を名乗る女から助けを求められてしまう。はじめは断った彼であったが、実は少女はミュータントであり、彼の娘で、何者かに命を狙われていた。
最後の決意をし、彼女を守ることを決意した。
残虐シーンの多様と影響
本来、マーベル映画の多くはヒーローを扱っており、
例えば、「アイアンマン」です。
彼は大富豪である反面、
そのような幅広い層を狙っているため、層を絞るような、
残虐シーンを見せることです。
これをすると年齢制限の厳しいこのご時世には、
なので、戦いは綺麗に見せ、
しかし、この常識を変えたのが昨年の大ヒット作「デッドプール」です。この作品はマーベルヒーローの一員でありながら、
なので、子供には教育が悪いとヒーロー映画、前代未聞のR18で
「デッドプール」というキャラクターに焦点を当て、
そして、本作はその流れを組むように、人殺しは残虐になりR15指定の劇場公開となりました。
様々な理由が挙げられますが、
一番わかりやすい点は迫力が増すのです。
それによって臨場感高まり、
本作の背景とローガンのキャラクター、
背負っている事の違い
まず一般的な映画のヒーローたちをご紹介します。
しかし、今回のローガンでは、彼は仲間を失い、
客の層を絞ったため見る人は子供のように現実離れした世界を愛するのではなく、
なので、地球を守るだとかそんな大きすぎるのです。
いかにも映画の世界観ではなく、多くの人が日常生活で体験するようなことに少し映画的スパイスを加えたのです。
それがローガンという人物に共感し、
そして、
なので、
これこそが、
完全治癒でなくなった事が与える影響
このシリーズを観た方はお分かりかと思いますが、
しかし、
なので、
しかし、今作は最強ではなくなり、
完全無欠な特徴こそがいままでのヒーロー映画の条件のひとつでし
最後に
(ネタバレが含まれます。)
本作でローガンことウルヴァリンを演じるヒュージャックマンは引
結果として次世代のミュータントを敵から守り抜き
国から追われている幼いミュータントたちに自分の未来を託すのです。
まるで長年第一線で海賊たちを引っ張ってきた白ひげ(ワンピース
そして、
"人間は人生を変えることができない。"
"だから家に帰ってママに伝えなさい"
この言葉を本作に置き換え、
昔の名作映画のメッセージを代用し、時代の流れとともに父から娘へ確実に彼らに伝わった力強いメッセージが映画「シェーン」から映画「ローガン」へと伝わった瞬間が垣間見れるのです。
それこそが映画を愛し、一目置き、尊敬の意を示す最善の方法であると僕は思います。
びぇ!
映画「お早よう」あらすじ感想:噂話が大好きな主婦 そして無邪気に遊ぶ子供たちを描く小津作品
こんちくわ!Shygonです!
今回は日本人として知っておかなければならない監督
小津安二郎
彼はその後の映画界において絶大なる影響をもたらした数少ない映画人のひとりです。彼は日本の庶民を風情ある家族ドラマに仕上げ、かつ彼ら家族の感情を情緒豊かに表現します。
サクッとあらすじ
郊外の住宅地、長屋のように複数の家族が隣り合って暮らしている。林家の息子実と勇はテレビがほしいと両親にねだるが、聞き入れてもらえない。
子供たちは、要求を聞き入れてもらえるまで口を利かないというストライキをして、最終的に買ってもらうのだった。
引用元Wikipedia(お早よう - Wikipedia)
1959年に製作された本作は小津安二郎監督で50作目という節目の作品なのです。本来の小津監督が得意とする家族物語を本作で拝見することができるのはとても興味深いですよね。さらにカラー映画として2作目であり
早くも小津監督の実力をカラー映画でも証明する形となりました。本作は家族の物語ではあるが、特に子供同士のジョーク交じりの可愛らしいやりとりを色彩豊かな装飾とともに見ることができる。
お早ようを熱く語る!
本作では白黒テレビが庶民の間で普及し始めの日本を舞台に、大人の現実を知らずにわがままな子供たちがいかに親にテレビを買わすのかをジョークを交えかつ、小津ワールド満載の中で彼らの心の葛藤が忠実に描かれています。
全く同じ格好をした仲の良い兄弟は隣のお金持ちの家にある白黒テレビを求めて毎日居候しているのです。親としては隣の家には言ってほしくないため注意するが、彼らはテレビを買えとしつこく迫るのです。
ではこの映画の魅力とは何なのであろうか
色彩豊かな街並みと人物
いままでは小津映画を堪能する際は、視覚的な要素はそこまで多く小津映画の魅力の中に含まれているわけではありませんでした。
それは白黒映画であったからです。しかし、カラー映画になると彼の魅力というものはさらに格段と増すのです。
固定されたカメラの中に移る様々な色の絶妙なバランス。これをなんと言葉で表現すればいいのでしょうか。
方向性はヨーロッパの絵画展にいっているような感覚です。もちろん静止画ではなのですが、まるで1枚ですべてを語る絵画と比較するならば、集約された1枚の絵画を見るために2時間の絵画をみているような感覚なのです。
全編通じて流行しているギャグ
これがこの映画の最大の魅力と言っても過言ではないかもしれない、それほど僕は好ききなのです。男子学生の中で頭をつつくとオナラをするという一種のゲームが流行っていました。
この一見くだらないゲームを映画冒頭で男子生徒がやっていたのです。しかし、そこだけで終わらず、中盤でも懲りずにやり、しまいにはオナラをたくさん出す方法の解説会話まで見せさせられるのです。
これはとても不思議なことなのですが、こんなことでも懲りなく見せられると自然にその魅力に引き込まれるのです。
最後まで飽きをしることなくやっているため、そのネタをみるために映画をみているのではと錯覚してしまいます。これが小津映画の魅力の一種なのかもしれませんね。
勘違いから起こる婦人内の噂
婦人会の会費の所在が行方不明になり、誰かがくすねているのではと疑い始めます。結局勘違いということがわかるのです。
しかしそれが解決したと思ったら、次は腹いせで子供に親がある特定の家族のみ無視しろと供しているのではという噂まで飛び交うようになります。
これも実際は勘違いであり、真相はテレビを買ってくれない子供がだれにも口を利かなくなっただけの話でした。
この勘違いから各家の女性はとばっちりをさけるため様々な対策をとろうとします。ですが実際は単なる勘違いであるので、見ている方はクスッと笑える冗談になるのです。
チャーミングな子供たちの存在
兄貴の見様見真似で、服装まで一緒な弟くんがとっても可愛らしいのです。中盤から最後にかけてテレビを買ってもらうために親のご飯を食べないなど子供らしいストライキを兄とともにするのですが、弟くんおなかがすいて食べたいのです。
おばさんがおいしいお菓子を買ってきても本心食べたい気持ちを兄によって阻まれてしまうのです。とにかく兄のマネばかりしている弟は兄弟がいる方はあの感覚がとても共感できるのです。
そんな子供の目線と婦人の目線を使い分け冗談交じりの楽しいお話を作り上げた小津監督は本当に人間なのでしょうか?
びぇ!
映画「東京暮色」あらすじ感想:泥沼な家族関係を どんよりした日本社会に投影する小津作品とは!?
こんちくわ!Shygonです!
サクッとあらすじ
杉山周吉は銀行に勤め、男手一つで子供達を育ててきた。ところが、姉の孝子(原節子)が夫との折り合いが悪くて幼い娘を連れて実家に戻ってくる。
妹の明子は短期大学を出たばかりだが、遊び人の川口らと付き合うようになり、その中の一人である木村(田浦正巳)と肉体関係を持ち、彼の子を身籠ってしまう。
木村は明子を避けるようになり明子は彼を捜して街をさまよう。中絶費用を用立てするため、明子は叔母の重子(杉村春子)に理由を言わずに金を借りようとするが断られ、重子からこれを聞いた周吉はいぶかしく思しまい‥
引用元Wikipedia(東京暮色 - Wikipedia)
1957年に製作された本作は普段の小津映画にはない珍しい特徴が何点かあるのです。本作の深い散策の前にいくつか製作上の観点からいくつかご紹介したいと思います。
小津映画最後の白黒映画!
基本的に小津安二郎という監督は勤勉なのです。なので、監督として軌道に乗り始めるとほぼ一年に1回のペースで新作を発表するのです。
この作品まで様々な名作を世に送り出してきたわけですが、今作を最後に白黒映画の製作をやめ、カラー映画へと方向転換をするのです。
そんな彼の従来の白黒映画への情熱が垣間見れる最後の作品ということで小津映画を語る上でとても貴重な映画なのです。
全編通して内容が暗すぎる
小津映画の醍醐味として家族にスポットを当て、日本の庶民を映し出すのに長けていますが、
この作品は本当に内容も何もかもすべてが暗いのです。
いままで家族の温かみなどを描いてきた彼にはとても珍しい作品です。なので、共同脚本家と政策上何度も喧嘩が勃発したそうです。このくらい作風は前作の早春からそのような兆候が見られ、僕は彼の中でも
「闇期」
と勝手に読んでいます。
大女優が出演し、唯一の失敗作(と言われる)
世界のクロサワこと黒澤明監督の作品など戦後を代表する大女優 山田五十鈴が小津作品の中で唯一出演しています。
大女優ということもあり、彼女の演技がこの作品に厚みを持たせ、さらに暗い雰囲気の映画になったのです。
今までほんわかした家族物語を描いてきた小津にとって上記に示したように初めての試みになるわけです。
そのせいか、小津作品の中でも軒並み評価の低い作品となっています。ですが、僕はあまりそうは思わないのです。ではなぜなのか、それをこれから語っていきます。
東京暮色を語る!
(ネタバレが含まれます。)
父を演じる笠智衆と娘の原節子という位置づけはいつもと変わりませんが、この二人の家族の物語ではないのが本作の特徴なのです。
原節子の妹役の有馬稲子を主に家族が移り行く様を描いています。本作がほんわかした家族物語ではないというのは妹がトラブルメーカーであり、その度に父と姉を困らせます。
はじめにチンピラ男の子供をお腹に宿してしまった妹は中絶費用を得るため、二人に隠しながら奔走します。それが解決したと思わせると妹は自分は父の子供ではないのではないかと疑い始めるのです。
母が誰であるのかということは妹だけには語られていなかったが、近くにある麻雀荘の女将さんでした。そして、彼女の思惑通り育ての父親は実父ではなかったのです。母親は父(笠智衆)が転勤中、子供を身ごもり家を出て行ったのでした。
普段は家の中では一目置かれている父が久しぶりにお酒に飲まれるシーンがありましたが、母が家を出て行ったとききっとそれを忘れるためにお酒に飲まれていたのでしょう。
そんなつらい父の経験を子供ながらに覚えている姉は絶対母を最後まで許すことなかったのです。最後に自分の真実を知ってしまった妹は死んでしまい、家族として収束のめどがつかないことになってしまい、その責任を重く受け取った母は故郷北海道に戻る決意をします。
そして戻る最後の晩に妹へ花を送りに行くが、姉に突き返されてしまうのです。
そんな中北海道へ出発する電車の中で
かすかに子供のお迎えを待つ母。
しかしそこには彼女は来るはずもなく、それを知りつつも電車の窓を開け、顔を乗り出し、持っているのです。
そんな空しい母には心に大きな穴が開いたような虚無感が漂っていたのです。
はじめから暗い話で心にずっしり乗っかる重い話ではありましたが、言葉では表すことのできない、やるせない気持ちがじんわりとエンドロールとともに感じます。
よく小津映画に対して感情を描くのが下手という人がいます。僕個人の意見としてはそんなのは真っ向から反対です。
ふつうに感情を自由自在にコントロールし、感情の変化がもろに出ているとします、すると小津安二郎が描きたかった日本の風情ある情緒や家族というものをローポジションで描く小津調の良さがでないと思います。
笠智衆のような坦々と一瞬無感情のようにみえる父親の内から湧き出てくる視覚だけでは感じ取ることのできない日本古来の家族体系の美化は決してできません。
そしてこの作品に関してはその一見無頓着な父が怒りをあらわにし、父親の威厳が損なわれる場面がいくつか表現されています。
暗い作品ではありますがこれこそが日本の庶民家族の真相であり、すべてなのかもしれません。
びぇ!
映画「早春」あらすじ感想:普段家族の温まりを描く小津監督が男女の闇に斬り込む!
こんちくわ!Shygonです!
今回は日本人として知っておかなければならない監督
小津安二郎
彼はその後の映画界において絶大なる影響をもたらした数少ない映画人のひとりです。彼は日本の庶民を風情ある家族ドラマに仕上げ、かつ彼ら家族の感情を情緒豊かに表現します。
そして今回は作品「早春」をご紹介します。
サクッとあらすじ
東京蒲田の住宅地に暮らし、丸の内のオフィスに通勤するサラリーマン正二と昌子は共働きの夫婦であるが、子供を疫痢で失って以来、お互いにしっくりいかないものを感じていた。
そんな中、正二は通勤仲間の1人である「キンギョ」こと金子千代と、成り行きから一夜を共にしてしまう。2人の仲にただならぬものを感じた昌子は、正二を責めて家を出ていく。
引用元Wikipedia(早春 (映画) - Wikipedia)
1956年に製作されたこの作品は小津映画恒例の原節子が出演していない唯一の作品となっています。
ですが、他の笠智衆や杉村春子は端役ではありますが、出演しています。ではなぜこの作品のみ原節子は出演していなかったのでしょうか?
はじめにその背景から説明しましょう。
原節子はなぜ出ていないのか?
原節子は昭和の大スターとしてほとんどの小津映画に参加しています。なので小津安二郎が映画界に名を残すことができたのは紛れもなく彼女のおかげなのです。
しかし、早春はその原節子が出演しないのが映画自体の大きな味噌をなってくるわけです。
「君の名は」のヒットの影響
1950年代初頭にTVドラマと映画を通してスターダムに乗り上がった女優岸恵子が本作では起用されました。
本作でも彼女の良さが全面に表現されていますが、原節子とはタイプの違う女優なのです。映画製作者としてその当時のトレンドを取り込むのも重要と考えたのかもしれません。
アニメ「君の名は」ではないですよ!
役柄と原節子の印象の相違
原節子といえば「永遠の処女」と死ぬまで言われるほどイメージが良い人であり清楚なのです。しかし、本作は不倫に走ってしまったある夫婦の関係の再構築を描いているため
いつもの小津作品ではない方向のものを作ろうとした本作には岸恵子はぴったりだったのです。
岸恵子が悪役の方があっていると言っているのではなく、彼女の雰囲気と本作が求める女性像があっていたのかもしれません。なお彼女の魅力で後に記述します。
「早春」を熱く語る!
職場ではある程度信頼を得ている正二(スギと映画では呼ばれていた)は通勤するときの電車が一緒であるという理由で電車仲間が数人いました。
そこの仲間たちで時々どこかに遊びに行くほど仲が良かったのです。
ある日のハイキングの夜キンギョと呼ばれる魅力的な女性と一夜を共にしてしまいます。自分には妻がいて、禁断の恋とわかっていてもそれにドップリ使ってしまいます。
そこでキンギョを演じるのが岸恵子なのです。
彼女は男にとってやみつきになりそうな中毒性のある女性なのです。そして一見性格がサラッとしているためつい妻持ちの男でもハマってしまうのです。
しかし、女の勘はこの時代から無視はできないのです。隠し事は必ずバレる、ましてや嘘の付けない男がいくらがんばっても無理なのです。
妻にバレますが、彼女はあえて泳がすのです。今のように女性が簡単に不倫を立証し世の中で生きていけるような時代ではないため彼女自身悩むのです。
最終的に耐えられなくなり、真実を語り数週間頭を冷やすため実家に帰ることになるのです。そこでスギ(夫)は事態を重く見るようになります。
丁度その時期に転勤の話が舞い込んでくると彼は苦渋の決断の末行くことを決めました。行くと決めても妻は家に一向に帰ってきません。そこで送別会やら最後の挨拶回りやらをしますが、妻のことで頭はいっぱいなのです。
ようこそ小津ワールドへ
この映画は小津映画ならではの良さがなじみ出ていると僕は感じました。今流行しているような不倫を恋愛かのように美化し、描くことは決してせず、
当本人とその彼らを取り巻く人達が不倫というものに翻弄されている様を現実的に大胆に描き切っています。劇中の会話に出てきますが、キンギョが電車仲間に説得されるシーンにて
我が身を抓って人の痛さを知れ
というように様々な障害が2人に積み重なるのです。
不倫というテーマなので、この話は家族の垣根を超え、職場まで関係する話しなため小津作品には大変珍しい家族会話のほかに職場でも会話も映し出され、家族の話と職場の話題が交互に語られるのです。
そして彼の作品では現実社会の投影もしっかりこの映画にも施されており、不倫というものが家族という、いままで小津自身が描いていた温かい家族ドラマを翻弄し、一大事へと変わるかが身に浸みて実感できるのです。
さらに女性の立場がまだ低いということも関係し、現代に見るからこそまた考えさせられる作品となっていました。
びぇ!
映画「東京物語」 感想:いまだに世界中方愛される小津映画の代表作の魅力とは? [ネタバレ&解説]
こんちくわ!Shygonです!
今回は日本人として絶対知っておかなければならない監督
小津安二郎
彼はその後の映画界において絶大なる影響をもたらした数少ない映画人のひとりです。
彼は日本の庶民を風情ある家族ドラマに仕上げ、かつ彼ら家族の感情を情緒豊かに表現します。そして今回は彼の作品の中でも一番有名であり、今でも世界中から評価されている東京物語をご紹介します。
1953年に製作された本作は大女優原節子が紀子を演じた紀子三部作の中でも一番最後の集大成となり、高度経済成長を背景に日本の家族体系が変化する様を描いています。
サクッとあらすじ
尾道に暮らす周吉とその妻のとみが東京に出掛ける。東京に暮らす子供たちの家を久方振りに訪ねるのだ。しかし、長男の幸一も長女の志げも毎日仕事が忙しくて両親をかまってやれない。
寂しい思いをする2人を慰めたのが、戦死した次男の妻の紀子だった。紀子はわざわざ仕事を休んで、2人を東京名所の観光に連れて行く。
周吉ととみは、子供たちからはあまり温かく接してもらえなかったがそれでも満足した表情を見せて尾道へ帰った。
ところが、両親が帰郷して数日もしないうちに、とみが危篤状態であるとの電報が子供たちの元に届き‥?
引用元Wikipedia(東京物語 - Wikipedia)
この作品とにかく世界中の映画人が絶賛しています。日本を代表する監督といえば黒澤明の名が挙がってくるが、この人は彼より前に早くも自分のスタイルを確立し、
日本人とは? に答えた作品
四季があり、伝統的な日本文化をこれほど正確にかつ魅力的に語る監督として彼の右にでる者は今現在いないと僕は思います。
そんななかでも東京物語はそんな彼の特徴が抜きん出て表現されています。彼の作品のほとんどはいわゆる映画の華がありません。
ただただ全編を通して家族のこじんまりした会話が続きます。しかし、その会話こそが小津映画の魅力であり、彼が映画を通して伝えたいメッセージでもあるのです。
そして話に厚みを持たせるために特殊な人に焦点を当てるのではなく、その当時の日本の一般家庭を描くことこそが日本を忠実にかつ魅力的に描き出せると彼は考えたのです。
東京物語と高度経済成長
この作品、実は当時の日本の歴史的背景を重ね合わせてみると魅力が倍増するのです。あの当時高度経済成長を期に若者が仕事を求めて都会に出ていくようになりました。
この家族もその例外ではなく、子供は成人すると都会へ出ていくのでした。すると子供はどんどん親元を離れ始めるのです。これが核家族の始まりです。
尾道という穏やかな田舎に住む老人と時代の最先端を行く東京に身を置く若者を対比的に描くことで、日本の時代の家族体系の移り変わりを現実的にを映します。
時代の変化と家族の変化
母が亡くなり里帰りしてきた子供たちは葬式が終わると早速母からの形見をもらおうとしたり、その日に帰ろうとする姿を見た嫁入り前の末っ子京子が憤慨し、それを紀子に訴えるシーンが最後の方にありました。
紀子は兄姉の母に対する対応に怒っている京子に対して、みんな年をとるとそうなる、今は私(紀子)も京子に賛成だけれども、年をとると彼らのようになるのだと返答したのです。彼女は彼らを決して非難することがなかったのです。
本作におけるの紀子の位置付けについて触れておきたいと思います。というのはこの映画、家族の話であるのに紀子は出てくる家族と直接血が繋がっていないのです。
しかし僕はここに小津映画の魅力が詰まっていると思います。あえて主要人物を家族の人間ではない人が加わるとその当時の家族像というものを
主観的にかつ客観的に描くことができるのではないかと思います。
最後のシーンにて父は子供ではない紀子に母の形見である時計を挙げるのです。そこに紀子と義父の間の友情を感じ、ほんわかする思いを感じるのです。
過激なアクションや、映画の王道芸を少しも描かず家族像を描くことのみに重点を置き、家族をひたすら描き続ける小津安二郎。僕はそんなに彼について知っているわけではないが、
家族物語以外に必要のない全ての観点を捨てて、家族内の感情や時代に翻弄される彼らの姿を描くことを貫いた映画
「東京物語」
そんな頂点を極めたこの作品ほど映画として完成後が高いものは他にどれほど世の中に存在するのであろうか。
父と娘と彼らを取り巻く家族ドラマ、晩春は僕の大のお気に入り作品であるが、この作品もこれに匹敵するくらいの見た後に心にズンと圧し掛かる「何か」を僕は感じたのであった。
びぇ!
追悼ロジャームーアという俳優が歩んだ道を振り返る![考察と解説]
こんちくわ!Shygonです!
今回は突如俳優ロジャームーアが亡くなったということで、
彼の人生を振り返り、彼が映画界にもたらしたことなどを熱く語ります!
緊急企画ロジャームーアとは
この方はなんつたってジェームズボンドを演じたことで一躍スターダムにのし上がり世界的な知名度をものにしました。
1927年にイギリスで生まれたロジャームーアは終戦とともに除隊し、映画界に飛び込みました。
長い下積み生活を過ごし、ついに50年代初頭に大手映画会社と契約を果たすのです。
その後は俳優としてトントン拍子で一歩ずつスターへの階段を上っていきます。
有名になる俳優にありがちなドラック、女などのスキャンダルに見舞われることなく、とても珍しい健全な俳優でもあります。
007ジェームズボンド
1962年にはじめて映画化された後は様々な俳優が主人公ジェームズボンドを演じるたびに大きなニュースとなっていました。イギリス出身のイアンフレミングの推理小説が元となっており、最近では小説にはなかった経歴を映画で新しく語られることもあります。
このジェームズボンドは初代ボンドを演じたショーンコネリーに今でもスポットが当てられがちです。
確かにコネリーは偉大な俳優でこの007映画をシリーズ化するほどにまで育てた立役者です。しかし、僕はこのロジャームーアがいなかったら現代のように大人気シリーズにはならなかったと思っています。
初代ボンドを演じたショーンコネリーがボンドを引退したとき問題は起こったのです。コネリー=ボンドという一般的な常識がファンから離れず、2代目は大失敗に終わるのです。
その後コネリー復活を望む声の推薦もあり、1作のみの復活もしました。ですが、当時はコネリーがいなくなった瞬間007は終わりな状態でした。
そこで新しい風をボンド映画に吹き込んだのが俳優ロジャームーアでした。
コネリーは007として堅実に任務をこなし、時折スパイスの効いたジョークを言いつつもしっかり仕事はこなす、いわゆるエリートです。
しかし、そんなコネリーボンドとは一転し、
ムーアが演じたボンドはとても甘いマスクで女性と遊んでばかりなのです。
もちろんコネリー時代からボンドガールといわれるほど美しい女性はボンド映画には必要不可欠でした。
でもムーアはエリートではあるが、基本的に女性には目がなく、仕事をほっぽらかし、女性の尻をひたすら追っかけまくるのです。
そのムーアのボンド像は今でも受け継がれており、現在ボンドを演じているダニエルクレイグにもその兆候が垣間見れますよね。
そんな低迷していたボンドに新たなテイストをつけたし、世界的な人気シリーズに仕立て上げた俳優ロジャームーア。
その功が成し、今までにボンド映画7本出演と最多記録を保持しています。
ロジャームーアという人間は89歳でその人生の幕は閉じましたが、彼の生きた功績、映画界に与えた影響はこれからも、これからもスクリーン上で生き続けるのです。
そんな彼に黙とう。
びぇ!
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新作ワイスピ8語る!+ 前作の地上波初上陸の際の炎上語る![考察と解説]
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今回は新作ワイルドスピードを熱く語ります!
この映画に関してはアクション映画ということもあり、僕がなにかを語るというのではなく、裏事情や、関連性のある話を語ります!
基本情報から、ワイルドスピードは2001年頃から始まるシリーズ作となっています。今作は8作目で、ほかのシリーズ作品などではよくある、路線変更や、失敗した前作をなかったことにするなど荒手な製作志向がないのが魅力的ですね。
一部時系列がずれているところがいりますが、公開されるたびに前作のスケールを超えてくるモンスター映画になっています。
前作スカイミッションについては車を飛行機から実際に落下させ、今作ではビルの上から滝のように車を落とし、ぶっ壊すシーンなどファンから見れば最高なのです。
今作に関して言えば専門家によると
シリーズ第8作目にあたる『ワイルド・スピード ICE BREAK』の全米公開が間近に迫っているが、イギリスの自動車保険サイト『Insure the Gap』が同映画シリーズ全7作を全て見直し、その映画内で実際に破壊された物品の被害総額を算出した。同サイトによると、その金額は約581億円に上るという。
その統計を詳細に調べると、169台の普通車が破損、142台の普通車が破壊され、37台のカスタム車、バス、電車、ヘリコプターなどの特殊車両が破壊された。それらに加え、51棟のビルが破損、31棟のビルが破壊され、432の物品が破損された。破壊された最も高額な車は『ワイルド・スピード SKY MISSION』に登場した約3.8億円のLykan Hypersportだった。意外なのは、主人公側の破損総額が約363億円であるのに対し、悪役側が220億円と、より少なかったことだろう。
引用元
映画ワイルド・スピードシリーズ7作内での、物損の被害総額は581億円以上 | HYPEBEAST
もう言葉がでません。そんな数字ですよね
ではやっと本題に。。。
ワイルドスピード8に対する思い
全体的にまとまっててスッキリしました。
前半戦に巻き散らかした種をしっかり回収していて十分楽しめました。
アメリカがやっとキューバと国交回復し、その勢いでこの映画の始まりがキューバなのです。やはり時代のトレンドをしっかり押さえてくるのはさすがだと思いました。
そしてやはり前作のブライアンの死をどう描くかというところが僕の一番の注目ポイントでした。
そのつながりがなぜドレットが裏切ったのかとオチにつながっていくのです。
少し無理をしている設定かと少し思ってしまいますが、まとまっていたのでそんなに気にするところではないかと思います。
ファミリーの危機になったときある一人がブライアンに助けを呼ぼうと提案しますが、彼の生活があるからだめだと却下されていました。その際に心の中で勝手に突っ込んでしましたが、あのオチを見るとなんともいえない気持ちになります。
そしてこのブログ毎回触れるのが、監督です。今作実はこのシリーズ初の黒人の方が監督を務めています。
Fゲイリーグレイという方なのですが、この監督ご存じない方の方が多いのかもしません。
彼の前作straight outta Comptonは本当に僕の好きな作品なのです。
ラップを聞く方はご存じでしょうがNWAという伝説のラッパー集団の伝記映画を作っています。
beatsやEminemのプロデュースなどを手掛けているDr.DreはこのNWAの出身の方ですね。
僕はラップが結構好きなので、この映画のリズム感や方向性がとても映画の創作性とNWAの音楽の方向性があっていて、監督の手腕が目立っていましたね!
その勢いがこの新作ワイルドスピードにそのまま反映されていました。
そして最後に怒っています。
実はこの作品には関係ありません。この映画の公開記念で公開日に金曜ロードショーで某テレビ局が前作のワイルドスピード7を放送しました。
その際に最後の大事なシーンを時間の関係上、割愛していました。
やはりネットで物議を呼び、炎上しました。
僕も彼らの意見に全くの同意です。
前作の最高の出来といっても過言ではない最後のシーンをカットは本当に最悪です。映画を放送する権利などないと思っております。もう言葉が出なくなり、悲しいです。
一映画のファンとして、映画製作者に敬意を見せるということを放送側として少しでも考えたら、あのような悲劇は防げたと思っております。
さらにあの映画に関して言えば、重要なポストの俳優が撮影中に亡くなり、最後に映画で黙とうを捧げる、
For Paulと。
俳優としてこれほど名誉なことはなく、映画丸々一本を一人の俳優に捧げる行為自体一ファンとしてうれしい限りです。
彼ら映画製作者として、俳優として、僕らファンとして敬意を示すという意味でのあの演出に配慮してほしかったです。
映画を見る人にとって映画の製作者に少なからず敬意の意を込めることは僕は必要であると思います。
もう少し彼らの立場で物事をとらえてほしいものです。
彼らにとって映画というものは息子同様であり、命を懸けて作るものです。
その魂にそんな演出をされたらどう思うのでしょうか。
See You Again とともに俳優ポールウォーカーに敬意を示したかった。
そんな思いと同時に今の日本の映画に対する対応に悲しみがこみ上げてきました。
最後にこれはあくまで僕個人の意見です。
以上です。