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ララランド:実は奥が深すぎる難解映画!?[考察と解説] part1

こんちくわ!Shygonです。

今回は今更ながら今年の目玉映画ララランドを熱く語りたいと思います!

しかし、なぜ今頃なのか

実際僕は公開日に観に行き、映画館ですでに4回観ているのです。

このコラム書こうと思えば公開日にかけたのです。ですが、僕はしなかった。

その理由は1つ。

単なるあらすじの説明と感想で埋めたくはなかったからです。

この映画、作品の本質的な部分を理解するのはとても難しいと思います。

でも、それこそが映画というものの面白さであり、魅力なのだと思います。

これはこの映画に限ったことではありませんが、特にこの映画は見る人によって解釈が違ってきます。

さらにパズルに例えると本編128分だけではこのパズル映画完成しないのです。ざっと85%しか埋まりません。あとの15%は見る人が埋める映画になっているのだと思います。じつはその15%何を入れても当てはまるピースなのです、と僕は考えます。

 

一体このことがどんな意味を示しているのか、これからご紹介します。

 

話は変わりますが、ララランドとアカデミー賞を分かち合った映画ムーンライトも同じようなことが言えると思います。

あの映画もかなり時間をかけてコラムを書きました。そちらも宜しかったらご覧ください。

shygon.hatenablog.com

 

もうこれをご覧の方のほとんどがすでに映画を鑑賞した後であると思います。

なのであらすじついては他のサイトをご覧下さい。

ではいくつかのカテゴリーに分け、熱く語り尽くしますよ!

 

キメ細やかな色使いが映画の進行を先導している!?

一度ご覧になったことのある方はわかると思うが、この映画色がとにかく綺麗。

観ているうちにポカポカと気持ちよくなっていくレベルなのである。

なぜか心地がいい。

しかし、気付かないうちにその感覚が徐々に薄れていくのだ。

そう、つまり、全体の色の志向が変化していることを意味するのである。

はじめのミアがパーティーに連れ出されるシーンでは赤、青、黄色、そして緑の衣装を着こなす彼女たちであった。そのようなシーンが永遠と続くのであった、と思われていた。しかしそんなことは永くは続かないのである。

この色使いの変化こそがこの映画のテーマであると思う。

僕の感覚であるが、この色の変化には2つの要素が含まれていると思う

 

いきなりミュージカルから勢いに乗って始まると同時に、色鮮やかな力強い衣装がスクリーン内を飛び回るのである。2人が出会い、恋に落ちたところまでその雰囲気で映画が進んでいくのであった。しかし、2人の中に亀裂が入り始めると同時に彼らの衣装含め様々な色が落ち着き始めるのである。

これが意味することは、

彼らの心情の上げ下げと色が密接な関係であることが読み取れるのだ。

つまり色使いの変化こそが、この映画の進行を助長しているといっても過言ではないということである。これが1つ目の要素であると思う。

 

そして、2つ目は色と現実と理想である。

ここでは冒頭のシーンに注目したい。ミアは女優を夢見てハリウッドにきた駆け出しの女優。セバスチャンは売れないジャスピアニストであった。

お互い夢を語り合い、自信に満ち溢れなんでもうまくいくと思っていたのである。しかし、現実を知り徐々にその情熱が薄れていくのである。

それが意味することはミアの目線から物語が語られているということである。

はじめのカラフルなハリウッドの世界はミアのようなハリウッドで活躍したいと思っている人たちのみが見る幻想であり、現実ではないのだ。

つまり徐々に色が薄れていくということはミアが現実を直視し始める分岐点であるのだ。明るい色というのは人の喜びなどポジティブな感情が含まれていることが多いのである。色が薄れていくことはそのプラスの感情の失墜を意味するのである。

このように色の推移が映画の進行の舵取りと視点の変化を意味するということなのである。

最後にこの映画の色使いはこのほかにミュージカルと撮影という観点においても深い関連性があるのである。このことについては次章で語り尽くそう。

 

 

撮影がこの映画に与える影響とは!?

次に撮影である。実はこの映画の撮影はミュージカル映画特有の撮影基質の元、撮られているのです。ミュージカルと映画ララランドの関連性については次章にて語るため、この回ではミュージカルと撮影そしてララランドの関係について触れておこう。

始めに撮影といえば、冒頭のシーンを思え浮かべるであろう。映画のはじまりと同時にロスアンゼルスの道のど真ん中でいきなり人々が踊りだし、楽しいノリでこの映画が始まっていく。

まさにココである。

よく見るとわかるが、このダンスシーンあんなにムチャしたカメラワークになっているにも関わらず、全くカットが切れていないのである。

つまり1カットであの冒頭のミュージカルシーンを撮っているということだ。実際には最後につなぎ合わせて1カットに見せているようだ。

ミュージカル映画の特徴として、なるべく多くの人をなるべく大きく映すのが肝となっていくのである。なので、従来のミュージカル映画で用いられていた横長のカメラを使用したのである。これはCinemascopeというものであるが、はじめの製作会社のクレジットシーンのとき、最後にやけにカラフルなロゴが出てきたのはこのためである。

CGができ映画産業に新しい風が吹き始め早40年弱経ったが、この映画は決して前ばかりを見ていないということが重要なポイントになってくると思う。この映画の一つの評価された点の一つが過去の風習、文化を尊重しつつ、新しいミュージカル映画を完成させているという点であると思うのである。

過去の文化の尊重とはつまり過去作品へのオマージュである。この映画様々な専門家や、監督自身へのインタビューからいろいろな映画からインスピレーションを経て、実際にこの映画に取り込んでいるのだ。

たとえば、あの名作ミュージカル、‘雨に唄えば’である。1952年にジーンケリーが監督、製作、主演をやったことで有名ですが、この映画の名シーンがララランドにも出てくる。はじめてミアとセバスチャンが丘の上でダンスを披露するシーンのとき、セバスチャンが踊り始める出だしが支柱に右手で捕まり振られるシーンがある。このシーンこそあの名作シーンのオマージュが込められているのだ。

次に日本のメディアの質問に1966年の映画東京流れ者の影響も少なからず、受けていると明言していた。これに関して僕の中ではこのシーンこそが東京流れ者のオマージュだと確信は得られなかったが、映画の中間当たりの夜道を歩くミアや、落ち込んでいるパートを描くときの部分が東京流れ者にソックリであると思う。

このように名作映画へのオマージュが撮影過程の中でされているのだ。他にも作品の元となったといわれている1977年のマーティンスコセッシ監督のニューヨークニューヨークや巴里のアメリカ人など様々な映画への尊敬を垣間見れるのである。

そして最後にセットについてである。この映画実は全部セットを実際に作り撮影に臨んでいるのである。この世の中セットなどなくても撮影はできる。CGですべてをつくり、映画として完成してしまう。さらにデジタル撮影が主流な現在においてフィルム撮影を望んだのであった。このことが意味することは昔ながらのミュージカル映画を目指したということなのです。ただこれだけきくと単たる時代に追いつけないフィルムメーカーに思えてしまうのである、

まるでジャズに対する気持ちを貫くセバスチャンのように。

しかし、デジタル撮影より、フィルム撮影の方がはるかに色の出方が鮮明なのである。色が 重要なこの映画にとって色の鮮やかさを捨てることは死を意味するのである。

 

そして次はカメラワークと二人の関係の変化である。この映画よく見ていると二人の出演時間がほぼ均等であるのではないかと思う。それは従来の恋愛映画にはない兆候なのかもしれない。どうしても一人の登場人物に偏ってしまうが、この映画は本当に交互に映しているのである。

さらにカメラワークに焦点を当てると面白いことが見えてくるのである。二人が良好な関係のときと亀裂の入った、あまりよろしくない関係のときとでカメラの枠の捉え方が違う気がする。仲のいい時は必ずと言っていいほど一つの場面に二人の顔が映し出され、表情が確認できるような状態なのである。しかし、関係の悪化とともにカメラの枠はより一人に焦点を置きたがっていた。これはカメラの動きから二人の関係の良好さを理解できるということである。

このようにこの映画を撮影という観点からものを見ると、従来の映画文化を尊重しつつも新しい映画に仕上げたということが理解できるのである。

 

今回はここまでとし、次回導入部分の85%の真意を探っていきたいと思います。

さらにミュージカル映画という観点からララランドを熱く語ります!

そしてあの映画が僕らにもたらすメッセージとは!?

 

 

shygon.hatenablog.com

 

びぇ!